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『華氏451度〔新訳版〕』(レイ・ブラッドベリ、ハヤカワ文庫)の感想

 「昇華士」が仕事のモンターグ。その仕事は国で存在自体が有害となった本を焼きはらうことである。一人の少女や、本と心中する老婆との出会いを通して、彼は自分の生活、そして世界に疑問を持っていく。そんな彼は本を手に取る。
 名作SF小説だが、未来の世界観としてリアルな感じは昔からなかったはず。“Fireman”が「消火人」でなく、本当に「火の人」だったとしたら、という言葉遊びからもうかがえるように、発想が面白い作品だと思う。
 ただ、大多数がYesと受けいれるものを拒否し、私が他の何かを選ぶこと。そしてそれを他人に分かってもらいたいという熱はリアルを感じる。以下はモンターグが妻の友達に向かって、詩を読もうとする場面。

 部屋は燃えるように熱く、彼は炎でありながら冷たくひえきっている。彼らは空疎な砂漠のまんなかにいる。椅子は三つ。彼は立ったままぐらぐらと揺れながら待っている。ミセス・フェルプスが服の裾を整えるのをやめ、ミセス・ボウルズが指先で髪をいじるのをやめるのを。やがて彼は不安定な小声で読みはじめた。その声は行を追うごとに力強くなり、砂漠を超えて真白な空間へ、そしてひときわ熱く空疎な空間にいる三人の女たちのもとへと届いていった。(p168)

 学校の放送室を占拠して好きな音楽を流すような、共有への緊張と熱が感じられる。そんな熱から見た本とは何だろうか。以下は本を持った“同志”の話を聞く場面。

 本は〝ちょっと待っていなさい″といって閉じてしまえる。人は本にたいして神のようにふるまうことができる。しかし、テレビラウンジに一粒の種をまいて、その鉤爪にがっしりとつかまれてしまったら、身を引き裂いてそこから出ようとする者など、おるかね? テレビは人を望みどおりのかたちに育てあげてしまう! この世界とおなじくらい現実的な環境なのだよ。(p141)

 ここにある、迎えることもシャットダウンすることも自由な本は、ある側面で「環境」となりそこなった他者と似ている。他者を欲するように本を欲する。そんな感覚が存在することが、この作品の本礼賛が滑稽に感じない理由だと思う。つまり、人であれ本であれ私たちが「環境」の制約を超えて何かを受け入れたいと欲するということ。本作のラストはその願いのSF的な解決となるだろう。

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