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《大学入学共通テスト倫理》のためのルードヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン

大学入学共通テストの倫理科目のために哲学者を一人ずつ簡単にまとめています。ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889~1951)。キーワード:「分析哲学」「写像理論」「言語ゲーム」主著『論理哲学論考』『哲学探究』

これは20代のウィトゲンシュタイン

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くいっと上がった眉山が、後年まで続くりりしい特徴です。

📝早速20世紀哲学の金字塔『論理哲学論考』を読みましょう!

その前置きとして、

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『論理哲学論考』は形式論理学に関する著作でもあります。ウィトゲンシュタイン自身「はじめに」でゴットロープ・フレーゲとバートランド・ラッセルの著作から刺激を受けたと語るように、彼らの論理学的探究に連なる著作です。3人はまとめて論理学的な言語の吟味を基本とする「分析哲学」(現在の英米圏で主流な哲学)の創始者です。画像は、真偽の組み合わせを図化したもの。

◎まず、「論理」とは何かの位置づけがクリアです!

論理学の命題は、世界の足場を記述している。(略)論理学の命題が前提にしているのは、名前には指示対象があり、要素命題には意味があるということである。そしてこのことによって、論理学の命題は世界と結びついているのである。(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫)、6.124から引用)

「論理的である」とはそもそも何なのか。ウィトゲンシュタインはそんな論理の基礎論を追求します。そしてたどりついた場所がここ。論理の最小単位である「命題」は、対象の名と「意味」の存在とを示す。これ以上余計なものはないというレベルで論理を言い切っている箇所です。

◎クリアすぎて、論理の既存のイメージを壊しかけています!

論理学のなかにある命題を内容があるように見せる理論があるが、それらの理論はいつもまちがっている。(略)論理学のその命題は、いまやすっかり自然科学の命題の性格を持ってしまっている。そしてこのことは、その命題がまちがって理解されたということの、確かなしるしである。(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫)、6.111から引用)

ウィトゲンシュタインは論理の命題は現実的意味の「真/偽」判定をしないと言っています。過激なまでにクリアです。じゃあ、論理(命題)っていつも何をしているものなの!??

◎ウィトゲンシュタインにとって、論理⇒写像です!

命題は、ある状況の不完全な像であるかもしれないが、それでも像としてはいつも完全である(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫)、5.156から引用)

「不完全」なのに「完全」。これは「写像」であることにおいて完全という意味です。

命題は、現実の像である。
命題は、私たちが想像するような現実の、モデルである。
(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫)、4.01から引用)

これらがウィトゲンシュタインの「写像理論」。論理が示すものを写像と呼びますが、人間の認識できる世界を言語化できるという立場に立つと、世界のほぼ全てが「写像」になります。ちなみに、この論理の空間は「架空の想定」も含むので、現実に存在する世界より大きいと見なせます。

◎この論理空間をウィトゲンシュタインは世界とリンクさせます!

論理空間のなかにある事実が、世界である。
(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫)、1.13から引用)

現実に存在する世界より、大きい論理空間を指して「世界」と呼んでいます。ものすごく大づかみな把握です。

世界は、事実の総体である。事物の総体ではない。
(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫)、1から引用)

◎ここで最初の引用に戻りましょう!

論理学の命題は、世界の足場を記述している。
(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫)、6.124から引用)

現実の世界の外側まで広がり、現実と重なるもの。ウィトゲンシュタインは「足場」と形容して、論理の世界が現実の世界の外側に広がり支えるさまを記述しました。「世界の足場」の「世界」はこの現実世界のことです!

◎そして『論理哲学論考』はここでドラマチックな展開を迎えます!

哲学のするべきことは、考えることのできるものの境界を決めると同時に、考えることのできないものの境界を決めることである。(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫)、4.114から引用)

現実世界の外の「足場」を考え抜いた直後、その考えで捉えきれないものに思考を向けています。

世界の意味は、世界の外側にあるにちがいない。(略)世界のなかには価値は存在しない。――もしかりに価値が存在しているのなら、その価値には価値がないだろう。(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫)、6.4から引用)

ウィトゲンシュタインの思考は世界内部で絶対的意味は存在しないという認識に進みます。

倫理は超越論的である。

世界がどうであるかということが、神秘なのではない。世界があるということが、神秘なのだ。
(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫)、6.421/6.44から引用、太字の部分を通常にもどした)

そしてウィトゲンシュタインは、「意味」や「価値」を超えた生きようとする意味と世界のありように認識を開きます!

◎最後は、語れる/語れない領域を完走した自作へのコメントです!

私がここで書いていることを理解する人は、(略)最後に、私の文章がノンセンスであることに気づくのである。(いわばハシゴを上ってしまったら、そのハシゴを投げ捨てるにちがいない)(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫)、6.54から引用)

こんな言い方で、読者を『論理哲学論考』の分析から現実世界へ帰していきます。「語れる」ことを語るもよし、「意味」や「価値」を超えたナニモノかを生きるもよし。いずれにせよ、人生で両者に同時に立つことが不可能な以上、それを試みた本文はもう「ナンセンス(無意味)」だと言っています。

語ることができないことについては、沈黙するしかない。
(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫)、7から引用)

『論考』の最後の1行です。直前の6.53「哲学に正しい方法があるとすれば、実際それは、言うことのできること以外、なにひとつ言わないことではないか」と合わせて読むと、哲学が「語らず」にそれと向きあう誠実さを含意したフレーズです。

📝何と、この『論考』はウィトゲンシュタインの論功の半分以下です!

見かけの上で存在していなくてはならないものは、言語に属している。(略)それは、われわれの言語ゲーム――われわれの叙述方式――に関する確認なのである。(『ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究』(藤本隆志訳、大修館書店)、「哲学探究」50から引用)

『哲学探究』から。これがウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」。言葉の意味を、ものや事実の実体というより「叙述方式(ゲームの規則)」にあるとするアイディアです。言語の意味を論じるだけでなく、言語学にも利用できる考えです。また、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」によって『論考』では対象としなかった日常言語も分析対象として視野に収めていきます。

📝こちらはジャストローの多義図形です!

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アヒルかウサギに見えるイラスト。ウィトゲンシュタインはこの図形を引用(よりかわいいイラストに書き換えている)して、「風景(アスペクト)」という考えの例にしています。ものや事物自体を『論考』の論理命題のようなむすうの「写像」とみなすアイディアと形容できるでしょう。特に後期のウィトゲンシュタインの思索は、考えさせる発想がてんこもり。彼の哲学はいまも世界への思考を活気づけています!

あとは小ネタを!

『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』(筑摩書房)は、原題の中の副題を意訳している。長すぎるタイトルで短すぎる事件をきわだたせた、いいネーミングだと思う。

工学少年だったウィトゲンシュタインは10歳でミシンの模型を作っている。木と針金で作られた模型は実際に縫うこともできた。独力で設計図を描き、ひたむきに実現させるスタンスは後の研究でも変わらなかった。

↪設計図で言うと、自邸を建築するにあたり天井の高さを設計図通り3センチ高く作り直させたエピソードがあります。ただ窓だけは予算的に思い通りに作り直せず、宝くじを購入したという話も伝えられています。結構けなげに思えます。


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