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夏目漱石『明暗』(岩波文庫)の感想

 一作ごとに違った魅力を見せる夏目漱石の遺作。ここでもまた、新たな「漱石」を見せる。『吾輩は猫である』の戯作的ハイテンションも、前期三部作の『三四郎』『それから』『門』の青春の主人公の迷いも、後期三部作『彼岸過迄』『行人』『こころ』の偽善に対する主人公の失望や絶望もここにはない。ここにあるのは登場人物に対する心の「明暗」を見通す徹底した解剖的な視点と、主人公に対する批判である。
「こういっても、あなた方にはまだ通じないかも知れないから、もう一遍繰り返します。自分だけの事しか考えられないあなた方は、人間として他の親切を応ずる資格を失っていらっしゃるというのが私の意味なのです。つまり他の好意に感謝する事の出来ない人間に切り下げられているという事なのです。あなた方はそれで沢山だと思っていらっしゃるのかも知れません。どこにも不足はないと考えておいでなのかも分りません。しかし私から見ると、それはあなた方自身に取って飛んでもない不幸になるのです。」(p318)
 津田由雄とお延夫妻は妹お秀からこのような罵倒を受ける。こうした批判に対して津田は「おれは逃げも隠れもしないぞ」(『坊ちゃん』)と直截に開き直ることもなく、「兎角人の世は住み難い」(『草枕』)などと達観することもできない。登場人物相互のストレスフルな対話を描いている。この作風はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を彷彿させる議論小説の趣がある(作中にカラマーゾフへの言及がある)。しかしその議論は形而上的(けいじじょうてき)な主題に奉仕するものではない。ひたすら「和合牽引」と「不和反撥」を繰り返す、人間というもののからくり=生理的レベルの反応(作中の「自然」)が、神経症的なまでの細かさで全編に描かれているのである(ところで、漱石の神経質は夏目鏡子の『漱石の思ひ出』に詳しい)。その細かさの一例を『明暗』から挙げよう。
「(吉川)夫人は自分の推定が十の十まで中(あた)ったと信じて掛った。心の中でその六だけを首肯(うけが)った津田の挨拶は、自然どこかに曖昧な節を残さなければならなかった。それがこの場合誤解の種になるのは見やすい道理であった。夫人はどこまでも同じ言葉を繰り返して、津田を自分の好きな方角へのみ追い込んだ。」(p401)
 この「六」の細かさが『明暗』である。小説ではふつう他者に言い当てられる「十」が、主人公に目からウロコ的な「気づき」を与えるか、それとは異なる「四」が「自分の気持ち」として重視される。しかし本作は「十」と「六」が平等に重視されるのである。対話の細かな力学が、冷静な筆致で解剖されている。また「夫人」が主人公を「好きな方角へのみ追い込」むことができる力関係も描いている。対話がこのような心の「戦争」(p438)であることを詳細に描くことが、本作が人間のエゴを描いたと言われる所以(ゆえん)である(詳細過ぎて物語はシンプルである)。
 以上の対話のエゴを作品の「明」=表とすれば、「暗」=裏はこの「四」のことであろう。「戦争」にいそしむ登場人物は自身の意志を堅持しているが、「四」の心は「戦争」の中に置き去りにされる。自分の心の中を本当には見つめていない。それは「医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下(おろ)した」(p7・冒頭文)肛門から探られる体内の病根のように、「何時どう変るか分らない」(p10)爆弾なのである。『明暗』は、「暗」の心の中の解明にその冷静な筆致を向ける途中で未完となっている。自分の本心を見つめていない主人公の心の「戦争」の物語が、どのように変じるか。それが中断した『明暗』はそれゆえに日常の摩擦をひたすらにリアルに描いたところで中断している。

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