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映画の再生①:映像

☆フロローグ

私の人生は映画とともにあった。小さい頃から映画をたくさん観たいという欲求が強かった。録画用のビデオデッキが友達の家にはあったが、私の家にはなかった。地上波のロードショーもテレビを観ていい時間ではなかった。友達たちが流行りの映画を観た話をしているのがうらやましかった。それで、映画の欲求不満が慢性化したまま、あの頃の親父の年齢にさしかかってしまった。(^^) 

中学生の頃、映画のシナリオを読んだ。たぶん多くの人が観たことも聞いたこともない古い映画のシナリオが本屋に売っていて、理由もわからず、しかしきっと深い何かがあるのだろうと、映画を観れない分だけ、分厚い本に打ち込んだ時期もあった。大学に入る前だったと思う、映画監督になりたいと思った。しかし、この先、自分に比類なきショットのアイデアが浮かぶのかと真剣に悩んで、映画監督は断念したものだった。映画とはまずもって<<ショット>>であるのだからだ。セリフも劇伴も効果音もない映画は存在するが、ショットがない映画は存在しないだろう、、、たしかに、デレク・ジャーマンの『BLUE ブルー 』(1993)では青の空(くう)がスクリーンを満たしており、それが映画のショットであるかどうかの判断は難しいところだ。この記事のトップの青色は青色ではなく、75分間続く『BLUE ブルー 』である。

1991年のヴェネツィア映画祭のデレク・ジャーマン。1994年に52歳で亡くなってしまった。

映画を再生する際に気をつけていることの説明を、自分のプロフィール代わりにしようと思う。あと何回なのかは分からないが、書き直すことも積極的にしようと思う。今回は主に映画の映像について。次回の②は、音声について書く予定である。


☆映画システムの概要

映画は、UHD、Blu-ray、DVDをユニバーサルプレイヤーであるOPPO UDP-205で再生し、映像と音声を分けて出力する。光HDMIケーブルでプロジェクターに映像の信号を出す。この際に映像の設定をアップコンバートしない、ソフトの画質と規格に忠実に再生するのをデフォルトにする設定にしている。なお、今回のテーマではないが、音声はOPPO UDP-205でD/A変換して、AVプリアンプに2chでもサラウンドでもアナログ出力している。


☆24fps(P)

テレビ放映やネットでのストリーミング視聴用ではなく、劇場公開用の映画というのは、1秒に24コマをプログレッシブ方式でスクリーンに投影する。今から100年近く前の、1930年頃にサイレント映画(劇伴がつく場合には生演奏や蓄音機でだし、セリフはスクリーンに字幕で示すので、役者たちは大きな身振りの独特の演技になる。映画創成期の作品。名作が無数にある。)から、サウンド映画(映画館にかかる普通の映画)に至るまで、フィルムで撮影したものであろうと、デジタルカメラで撮影したものであろうと、また、フィルムで上映(今はほぼ消滅)しようとも、デジタル上映(普通の映画館でやっていること)をしようとも、1秒に24枚の写真をスクリーンに映しだす、24fps(24 frames per second)のフィルムレートで、プログレッシブ方式(写真を1枚1枚投影する劇場映画の方式で、半分ずつ投影してもう半分を残像と合成することで1枚の写真を生み出すのがインターレース方式というものでテレビはこれ)である。この24fps(P)で美しいものや恐ろしいもの笑えるもの、沈黙でしか応えようのない異界を映画監督は表現しようとする。

UDP-205のマニュアルP57の記述。次のページには「上級者の場合は、、、アップコンバートを全て試して、、、]」云々という文言が続く。私の立場からすると、映画に関しては、極めてミスリーディングである。

☆フレームレートを無視すると、、、

例えば、クリストファー・ノーランの劇場用映画作品は24fps(P)で観なければならない。それは黒澤明も同様である。チャップリンの場合には使い分ける必要があるだろう。昔は映写機というのは手でハンドルを回していた。概ねであるが、1秒間に15枚の写真が映るようにしていたようだ。あるサイレント期の映画のDVDを買ったのだが、なぜか90分程度の映画なのに60分ほどの再生時間になっている。これは検閲や削除ではなく、サイレント期のフィルムレートと現代のレートを混同しているのであろう。つまり、元々は約15fpsであったものを24fpsにしてしまうことで速度が上がってしまい、再生時間は約90分の2/3である約60分になったのであろう。製作者が映画を知らないという馬鹿馬鹿しい企画の商品である。


☆オート・アップコンバート

OPPOのUDP-205のアップコンバートをオート(初期設定?)にすると4K画質であることを示す数字の横に「60」の数字が表示された。映画ソフトで、である。これはたぶん1秒に30枚の画像を2回投影しているということなのだと思う。最初は良い画質だなと思ったのだが、しばらく観ていて、映し出される形象の縁が光を帯びて滲んでいるのである。それでBlu-rayとDVDを5本くらい試したが、全部「60」の表記。60というのはおかしいだろう。24x2で≒50というのであれば分かるが、30x2のことであるならば、それは映画ではない。おそらく、このオート・アップコンバートはプロジェクターの最高スペックを検出して反応しているのではないだろうか。

オート・アップコンバートによって、スクリーンのそれぞれの輪郭線の発する光は、まるで物の本質が充溢して美しく光を発しだしたのだ、まるで世界が朝日で染められたかのように、と好意的に受け止めていたのも最初だけ。おかしい。フィルム時代の映画(1999年と2002年の「スターウォーズ」ep.1とep.2以前のほぼ全て)も、デジタル撮影が開始された後の映画でも、このオート・アップコンバートを通すと物の輪郭線が光っているのである。そこでアップコンバートをやめて、ソースダイレクト、つまりそれぞれのディスクに忠実な再生になるように設定すると、つまらなくなって、、、ない。もっと自然で、もっと鮮やかで、階調性も上がる。たぶん微細なものがぜんぶ潰れて滲んでしまっていたのであろう。輪郭線のような目立つところだけが派手になるのがアップコンバートなのだろう。もちろんこうしたことにはプロジェクターの品質も関係するので、現状のシステムではそうだということなのである。

このep1、及び、次作のep2と共に、映画の誕生以来100年に渡って続いてきたフィルムによるアナログ撮影の歴史に激震が走る。デジタル撮影の時代の幕開けである。しかし、そのデジタル撮影の革新が映画的fpsの変化を意味するわけではない。たとえ、デジタル撮影は元来、非映画的fpsの撮影で使われていたのだとしても。

☆映画の根源

「P」(プログレッシブ方式)と「I」(インターレース方式)は見え方がまるで違う。しかし、24fps(映画のレート)と30fps(テレビやネット動画のレート)の違いは分からないという人も実は多い。このまま分からない人が多くなると、映画の24fpsという伝統が失われるのであろうか。映画というのはリュミエールやメリエスたちと共に始まって130年ほどである。俳句や短歌の五七調が日本人の心性の根源と関係があるという調子のことを加藤周一は『日本文学史序説』で言っていなかったであろうか。映画にとって、フィルムレートとはそういうものではないのか。

映画のfpsは映画の根源ではないのであろうか。映画とは写真が1秒間に一定枚数スクリーンに投影されることで動いているように見えるのであり、写真の連続体こそが映画の本性である。30fpsで映画を見ると、ぬらぬらとした動きになる。そして本来は24fpsであるものを30fpsで投影するということは、撮影されたフィルムないしデータには存在していないコマが、重畳してくることになるのである。監督やカメラマンらの映画製作者たちと毎秒6fpsずつズレ続けていって、本当にその映画をきちんと感得できるであろうか。


☆サブスクの時代

渋谷のTSUTAYAというのはシネフィルたちの聖地であった。大げさではない。私も渋谷に行くときはいつも立ち寄って、返却期限ぎりぎりまでに観れるmaxのDVDやBlu-rayを借りたものだった。その渋ツタがシネフィルの聖地としては消滅した。もちろん映画館でないならばサブスクで視聴するのが普通となった事情があるのだろう。ところで、一部の映画監督たちはサブスクに対して懐疑的である。おそらくサブスク鑑賞者がごく普通に24fps(P)で視聴している可能性が極めて低いからだろう。便利なのは結構であるが、本末転倒とはこのことである。以前、とあるSNSでレンタルDVDを活用して映画を観ていると言ったら、どこぞの自称・ベテラン映画通から「レンタルDVDってまだ存在していたの?」と声をかけられた。



長くなったが、映画は芸術作品であり、それをそういうものとして受け取って初めて評価すべきである。映画の感想は十人十色だから、じゃなくて、そもそも同じものを観ているのか?という話なのである。映画を作った側の基準でその作品を受容できているのか?それが無いのに感性の話をするというのは、不可視の永遠的平行線で遮蔽された空しき島宇宙的発想なのである。


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