拍手、野蛮なる大合奏

かつてザルツブルク音楽祭のコンサートを聴いた時、一番感銘を受けたのは、聴衆の反応だった。ウィーンフィルのブルックナーに対する熱烈な拍手。私にはそれが「われわれは、君たちの演奏を理解している!!!」と叫んでいるように聞こえた。ザルツブルク音楽祭では、参加したオーケストラはひときわ名演を聴かせるというが、その理由が、この拍手、聴衆の反応にあるのではないかと考えた。そしてこの時初めて「演奏家は聴衆が育てる」と直感した。

以来、コンサートのたびに、それまで特に気にしていなかった拍手に注目した。そしてそこに、さまざまな個性があることに気がついた。

熱狂的な激しい拍手。

暖かい、包み込むような拍手。

お世辞のようなよそよそしい拍手。

当たり前のようだが、知らず知らずのうちに、聴衆自らが、自分たちの思いと本音をしっかりと拍手に乗せている。私にはいつしかそれが「拍手が語っている」と感じられるようになった。

拍手は語る

世界的なピアニストが中規模のホールで聴かせた圧倒的な名演。それに対する聴衆の反応は、極めて繊細で、同時に熱のこもった、上質な拍手だった。それは私の耳には「ありがたい、ありがたい」と聞こえた。

海外の著名な楽団ではあるが期待外れの演奏をした時は「こんなもんか」と、「有名な楽団だから良い演奏に違いない」と2つの声の入り混じった、不協和音のような声だった。

昨年、ヨーロッパに随行したときの拍手も、公演地によって全く異なっていた。田舎町の「ようこそ、遠くからありがとう」「君たちの演奏、好きだよ」の声。一方都会では「おー、アジア人はこんな演奏をするのか」とも聞こえた。

ちなみにヨーロッパ人の拍手は、体格のせいか往々にして音が低く重たい。一方で日本人の拍手は音が高く軽い。そしてコンサートにもよるが、控え目な場合が多い。

拍手、野蛮なる表現方法

さて、ここからが本題。

一月ぶりにコンサートを聴いた。コロナの影響で席は満員には程遠かったが、そのせいもあり、ホールは豊かな残響を聞かせていた。

楽器の音が止まった瞬間、演奏に応える大きな、共感に満ちた拍手が響き渡った。

久しぶりに「拍手」を聴いて、その響きにはっとした。長らく耳にしていなかったが、その豊かさ、温かさと複雑さに驚いた。

考えてみると、拍手は人間が自分の体を楽器として鳴らす行為だ。肉と骨が当たり、皮膚がパチンと音を鳴らす。なんと野蛮で原始的な表現手段だろう。その音は骨格、肉付き、拍手の仕方により様々である。それが数百にわたって重なり合うことで多くの倍音、音色、音高が複雑に混じり合い、太く、温かく、明るく響き渡る。

これは、紛れもなく音楽ではないか。それにしても、なんと野蛮な大合奏だろうか。野蛮であるが故に、ストレートに心を表現し、ストレートに心を打つ。その時、思わず拍手の音に感動する自分がいた。

コンサートの本質は対話であり相互作用であると思っているが(異論も多いが)、拍手だけではなく、演奏前の客席の期待感あるざわめき、演奏中の息を飲むような沈黙、楽章間のわずかな緩み。それらの全てが聴衆から演奏者への発信であり、コンサートの重要な構成要素なのだ。けれど、拍手という饒舌で感情的な手段は、その中でもやはり特別な意味を持っているのは間違いない。

パウゼによる気づき

今回、しばらくコンサートを聴いていない状態、すなわち耳が「パウゼ(休止)」していたお陰で、拍手を新鮮に捉えることができた。音楽においては曲中のパウゼ(休止)もまた重要な要素だ。その長さ如何で、前後の音楽の関係が変わってくる。そして「間」と呼ばれる、無音そのものに意味を持たせる独特の感性もある。現代の日本人も、もう少しパウゼしてはどうか…話が逸れたので、今回はこのくらいにしておく。



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