私は、うどん県、いや香川県の西の方、三豊郡山本町というところで生まれました。三豊郡は今は三豊市になりました。観音寺市の両側に三豊市があり、愛媛県と接する、香川で最も西にある街です。

うどん県と言われるように、香川県ではうどんをよく食べます。うちでも客が来れば隣のうどん屋からうどんを取ってあげるのがいつものことでした。喫茶店にうどんがあり、中学時代は卓球大会の帰りにはいつも先生がうどんをおごってくれました。JRの駅の売店でもかけうどんを売ってたりしました。高校からの帰りにうどんを買って電車の中で食べたりもしました。

瀬戸大橋ができる前は、宇高連絡船という、岡山県の宇野と高松を結ぶ連絡船があり、その連絡船に乗ればすぐにうどんの店に列ができていました。連絡船に乗ったらうどんを食べる、というのが当たり前でした。東京から帰るときは、連絡船でうどんを食べると香川に帰ってきた、と実感したものでした。

山本町も私が生まれた頃には1万5千人位の人口でしたが、今では7千人程度しかいないようです。ほとんどの人が他の地域に出ていくためです。空き家や、空き店舗も増えています。

そんなへき地のようなところで育ちましたが、両親が教師だったので、厳しく育てられました。学校に行って先生から指導され、家に帰っても先生がいて勉強させられる、みたいな生活でした。つまり、学校でも、家でも勉強させられるという子供にとっては地獄のような環境でした(笑

正直、勉強させられるのが嫌で嫌でたまりませんでした。

ただ、良かったこともあり、親が教師ということで、小学校時代、中学校時代は、○○先生の息子さん、と言われていつもひいきされていました。滅多に先生に怒られなかったです。

とはいえ、それで調子に乗るとすぐに親に報告されたり、兄から怒られたりするので、そんなに悪いこともせず、優等生を演じていました。でも、心の底では自由に思いっきり遊べるクラスメート達を羨ましく思っていました。他人の目を気にしてハメを外しきれないところがありました。

高校に入ると、私の親(中学教師と小学校教師)を知ってる人もなくなり、ひいきされることは全く無くなりました。ようやく普通の状態になったわけです。そして、父親の教育方法にも疑問を抱くようになり、高校2年になってからは全く勉強をしなくなりました。

その結果、クラスでビリから2番目、全校でも約400人中367番まで成績が落ち込みました。この成績ではまともな大学には入れません。高卒での就職も真剣に考えました。

ラーメン屋か、本屋、またはその頃マンガが流行っていた空手を習って空手の先生にでもなろうか、と真剣に考えたりしました。

しかし、進学校だったため、友人に就職のことを話しても、すーっといなくなる状態で、全く相手にもしてもらえませんでした。なので、私は非常に悩みました。どうすればいいんだ?と。

考えれば考えるほど、高卒で就職するより大学を出た方がいい、という気がしてきました。別に考えなくてもそうでしょうけど(笑

そこで、周りのみんなも大学受験を目標にしているし、私も大学受験に本気で取り組んでみることにしました。

そのころは勉強もせずにいろんな本を乱読していました。その中にキュリー夫人の伝記もあり、そこには、キュリー夫人は、その年の大学の講義が始まる前に1年分の予習をして、数学や物理について精通するようにしていた、と書いてありました。その結果、キュリー夫人は物理ではソルボンヌ大学で1番、数学では2番で2つの学士を取ったそうです。

これは、高校3年に入る前に高校3年の数学や物理を全部予習して、精通していることと同じだろう、と私は思いました。このやり方は受験勉強に使える、と思った私は、チャート式数学III(赤チャート)を高3の前の春休みに全部予習することにしました。2週間で約320ページの赤チャートの問題を解く、というやり方です。2週間なので1日20ページは解く必要があります。

この方法は、数学が非常に苦手だった私にはとても苦痛で、耐えがたいものでしたが、努力と根性で何とか高3の微分、積分のところは全部やることができました。このとき、幸運だったのは、微分と積分が裏返しの関係にあり、まとめてやることで理解が深まることと、機械的な計算が多かったことです。

その結果、高3になってからは、数学の予習復習に時間を割く必要がなくなり、成績も順調に伸びて行きました。全校で250番、200番、100番、30番、10番と成績が順調に上がっていきました。しかしながら、この10番あたりから成績がピタリと伸びなくなりました。高校3年の秋から東大入試まで、ほとんど偏差値は上がりませんでした。そのため、1回目の東大受験は不合格でした。

浪人することにして、東京のお茶の水にある駿台予備校に通う事にしました。江戸川区の平井というところに4畳半のアパートを借りて予備校生活を始めました。5月の模試は優秀な学生が皆受かった後なので、結構いい成績が取れました。

しかしながら、現役生が伸びてくる夏にかけて、徐々に全国順位は下がっていきました。そして、このままでは、東大には入れないレベルまで偏差値が落ちてしまいました。

私は、どうしていいかわからず非常に焦りました。しかし、必死で解決策を模索した結果、浪人の秋頃に、潜在意識の使い方をマスターして、成績の伸びが止まらなくなる勉強法を発見しました。

その方法を使って勉強すると、成績(偏差値)がどんどん伸び続けるようになりました。それで、全科目全国でも3桁台になり、12月には、国語で127番、英語と理科は300番台、数学はZ会でコンスタントに115点程度を取れるレベルになっていました。

その頃は勉強すればするだけ成績が伸びるのがわかるので、勉強するのが楽しく、早く入試本番が来ないかな?と遠足の日を待ちわびる子供のように、入試の日が来るのが楽しみでした。

東大入試では試験が終わった瞬間に合格を確信できました。数学のできが、昨年とは全く違い、4問完答、2問は部分点が取れた感触があり、他の科目も大きなミスはしませんでした。どんなに低く見積もっても260点以上取れたのは確実でした。こうして東京大学に楽勝で合格することができました。

この勉強方法は再現性があり、私が教えた生徒さんは、高校1年の1学期に2カ月で全校45番から3番に上がったり(その後1番)、別の生徒さん(高1秋)は3ヶ月で55番から4番に上がりました。

行ける高校がない、と言われていた超劣等生の中学生は地域トップの名門高校の特進クラスに合格しました。脳に障害のあるお子さん(中学生)にも効果が見られました。資格試験ではUSCPA(米国公認会計士試験)の最終合格者も出ています。

その後は、就職人気No1の企業に入り、バイオテクノロジーの研究を約20年ほどやりました。その間に、博士号を取得し、弁理士資格も取り、今は独立して特許事務所を経営しています。

以前は大学院大学の特任教授をやったり、官庁の補助金の審査委員(最大1社7億円)もしていました。今は内閣府のプロジェクトの委員などをやったりもしています。

大学院大学教授のときは、ノーベル賞を後に取られた山中伸弥教授(現京都大学iPS細胞研究センター長)が最初に相談に来られ、山中教授が契約書をきちんと読んで質問に来たのに驚きました。多くの教授たちは契約書を読まずにサインするのが普通だったからです。

その契約は、大学院全部を縛るものだったので、検討しましたが、それほど大きな影響はないだろう、ということで署名OKと答えました。

山中教授はお父さんが奈良で会社(工場)を経営していて、特許が有効なうちは景気が良かったけど、特許が切れてから経営が苦しくなったのを見ていたので、特許や法律の重要性を認識されていたのでしょう。

潜在意識の研究は今でも続けていて、最近は、お金を稼ぐ潜在意識の使い方がわかってきたところです。この方法を発展させて、どんどんお金を増やし続けるプログラムを開発中です。

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