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黒ヤギさんがお手紙食べても──ファンレターのこと

 少女時代の文通のことを小説に書いたのは、ガーデンロストだった。
 他にもあったかな。文通ではないインターネットのことは、結構書いたけど。他に……ああ、ちょうど今、手紙がよく出てくる小説を書いている。今っていうかずいぶん長い間……。世に出るかは、ちょっとわからない。
 私はこの令和の時代も、手紙をよく書く方の人間だと思う。日常的ではないけれど、気持ちが昂ぶると手紙を書くし、一筆つけて物を送ることも多い。
 字が汚くて、作法もろくに知らないけれど。
 SNS隆盛のこの時代には、周回遅れのコミュニケーション。でも、いいものなんだよね。ともすれば、ヤギが食べてしまうかもしれない、既読という概念がないお手紙というもの。

 そもそもデビュー当時から、私はよく、ファンレターをいただく作家だった。感想というものを手紙で送る文化の、本当に末の方にいたからなのかもしれない。いただくのは女性からが圧倒的に多かったけれど、男性からもいただくことがあった。
 印象深い手紙もある。かわっていたな、と思うものも。でも、いただくお手紙の価値は印象の強さとは比例しないし、そこに優劣はない。お手紙は、いただけるというだけで特別なもの。

 デビューして数年間は、年に1,2度、御礼のはがきを返していたけれど最近は忙しさにかまけてできていない。でもまた折を見てしたいな、と思っている。手紙という文化が好きであるので。でも、手紙というのは、一方的だからこそいいものであるとも思う。
 ファンレターには力があるといわれるけれど、そんなの幻想だってみんなわかってしまっている。力のある作品が、ファンレターをたくさんいただくということはもちろんあるだろう。けれどそういうチューニングではない作品もあるだろうし、お手紙というやつは基本、何も生まない。
 そういう見返りではない。ひとりのそれによって動かなかったものが動く、なんてことはないだろう。ほとんどない。けれど、それがいいとも思う。それがいいし、それでいい。受け取る側にとっては、たくさんのうちのひとつで、でも、書く側にとっては、そのすべてが特別な一通なんだと。

 中高生向け、という小説をほとんど書かなくなった今も、編集部からお便りを転送していただくことがある。とても嬉しくて、少し怖い。怖いので、ひとりで、そうっと覗く。ドキドキする。特別なのだ、それは。
 実は私は、青春期に作家にファンレターを書いたことはない。何かが、まかり間違って、返事がくるということが怖かったので。これはなに、と咎められることが怖かったので。
 けれど手紙をよく書く人間だから、文字を便せんの上に躍らせる、その感触を知っている。心が動かなければ、そんなことはしないって。
 どんな人が、どんな場所で、どんなペンをつかって、どんな気持ちで。私の本を読み、そこで動いた心を、こちらに伝えようとしてくれたのか。
 手紙にはそこに人生が見える。
 それは、私の書いたものが誰かの人生に干渉したのだ、という、妄想ではない確かな痕跡だ。
 何万冊売ったって、それを実感することなんか、ほとんどない。SNSというデータ上で推測することがあったとしても、物理として証拠が残るということなんて、本当に、かすか。
 だから、何かに触れて、心が動いて、機会があったら、手紙を書いてもらえたらいいと思う。
 相手は私でも、もちろん他の誰かでもいい。
 それは、誰かのつくる物語が、ひとの心を動かしたという証拠であり。
 あなたの人生が豊かであるという、確かなあかしだ。

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