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剥がれる金メッキ

こんばんは。id_butterです。

はぁ〜。
ため息をついてしまう。

先日、こんなことを書いた。

母のこと、家族のこと、過去のこと、いろいろな記憶や体験が作ってきた、わたしの中の歪みを初期化している。
それが、わたしの理解した「癒し」とか「赦し」とか「手放し」という言葉である。

でも、これが存外難しい、という話を書く。

前回書いた通り、母にはわたしのように鮮明な記憶がない。
同じ事件の被害者として、母は記憶を忘れ、わたしは記憶を刻み込んだ。
そのことを、責めるつもりはない。

少し悲しい気持ちはある。
大人になった今、こういう大人は嫌いだなと個人的に思う。
背負うのは大人の役目だ、そう考える自分がいる。
けれど、片側で背負えない人には背負えない、そのことも知っている。
そう思うと、もう何も言えない。
涙が乾くのを待つしかできないのだ。

そこまではよかった。
少なくとも、さっきまでそう思っていた。

またしても、娘だった。
5歳の次女に思わぬ攻撃を食らう。

次女:「ママ、わたしねママが大好きだよ。」
わたし:「うれしい。ありがとう。」
次女:「ママも、わたしみたいに子どもの頃、ママのこと好きだった?」
わたし:(急な攻撃に茫然自失状態)「……う〜ん、普通かな?」
次女:「え、普通なの?なんで?」
わたし:(波状攻撃に悶絶)「……う〜ん、なんでだろ?」

今日の会話ダイジェスト

大人のくせに、とお思いだろうが、わたしはなぜか最近嘘のつけない体になりつつある。
この時も同じようなことを感じた。

今回、彼を好きになった時からだ。
わたしはなぜか、嘘を吐けなくなり、我慢することもできなくなってしまったのだ。

でも、母もそうだった。
母は実家に滅多に帰りたがらなかったから、わたしはお盆シーズンの「お墓まいり」という行事に参加したことがなかった。
だから、同級生から聞くその行事に憧れていたほどだった。
祖父と祖母のいる田舎に行くのは、3〜4年に一度くらいだったから、いつも慣れないままで、子どもながらに気まずい夏休みを過ごした。
帰り間際にやっと仲良くなった親戚の子らと離れたくなくて、帰りの車で「また来ようね」というと、母は黙っている。
少し大きくなってから、「お母さんあんまり実家好きじゃないのよね。」と聞いたことがある。
その時、今の次女と同じようにわたしも不思議に思ったのだ。

これは、わたしにとっての母、次女にとってのおばあちゃんだけではない。
次女にとっての父親、わたしからすると元夫も同じカテゴリに入る。
次女が好きなひとを母親わたしが好きではない、という事実は彼女を傷つけてしまうだろうか。

こういうとき、努力なんて無駄なんじゃないかと思う。
泣きながら、いろいろなことに向き合って、やっと赦せて、乗り越えられた気がしたのに、なんの意味もないんじゃない。

金メッキは貼り付けてもすぐに剥がれてしまう。
所詮、偽物だ。
360度全方向から見られることに対応していない。
視線の集中する表の部分にメッキを貼り付けただけで、中身は金じゃない。
結局、元から持っているひとに追いつくことなんて、叶わないんじゃない。
ギフトは天から与えられるもの。
努力で手に入れられるものじゃないのかもしれない。

別に比べているつもりもないけれど、憧れている世界には永遠にいけないんじゃない。
全てゆるされて、心が楽になる日はいつ。
そう考えてしまい、足が止まる。

そんな虚しい気持ちに全身覆い尽くされる。

明日にはこんな気持ちがきっと晴れているはずだ。
そう思って今夜はやり過ごそう。

今日は早く寝ます。
おやすみなさい。

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