杜氏のふるさと安芸津

                              北村浩司

 数多くの名杜氏を生み出し、吟醸酒の基となる技術をはぐくんだと言われる広島県東広島市安芸津町。この町がどんな経緯で多数の名杜氏を輩出するようになったか、現地の取材と各種の資料を基にまとめてみました。

1.安芸津という土地について
 まず、安芸津という地名は決して古いものではありません。具体的には第二次世界大戦中の1943(昭和18)年、賀茂郡三津町、早田原村、豊田郡木谷村が合併して、賀茂郡安芸津町が成立しました。その背景には、戦時下の国策として三井造船安芸津造船所の建設計画があり、この計画を受け入れる側として自治体を1つにまとめるという方針に則ったものでした。安芸津という町名は、当時の宮村才一県知事によって選定されました。その理由として、神功皇后がこの地に立ち寄ったという伝説と、遣新羅船が停泊したという史実に基づき、安芸の国の良津、由緒ある港、という意味を込めたとされます。安芸津町は戦後の1956(昭和31)年、賀茂郡から豊田郡に変更になり、さらに2005年の広域合併で東広島市に編入されたわけです。ちなみに造船所建設計画は戦況の悪化に伴い、実現しませんでした。

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 歴史上、安芸津に関する地名が最初に文書に現れるのは、万葉集です。

 風速(かざはや)の浦に舶泊(ふなどまり)の夜に作る歌二首
 我がゆゑに妹嘆くらし風早(注1)の浦の沖辺に霧たなびけり(万葉集  3615)
 沖つ風いたく吹きせば我妹子が嘆きの霧に飽かましものを(同3616)

 上の歌は「こうして遠くへ旅する私のために、わが妻が嘆いているようだ、風早の港の沖に霧がたなびいている」という意味、下の歌は「沖からの風が強く吹いてきたら、愛しい妻のため息に心ゆくまで包まれるのに」。これは、万葉集3580の「君が行く海辺の宿に霧立たば あが立ち嘆く息と知りませ」(あなたが行く海辺の宿に霧が立てば、それは独り残された私が嘆いたため息だと思ってください)の返歌とも言われています。

 この2首は、当時、朝鮮半島を統一していた新羅という国へ日本から派遣した「遣新羅使」という外交使節の誰かが736年、新羅に向かう途中に風早の港に立ち寄り、詠んだ歌だとされていて、風早地区の祝詞八幡神社という神社に歌碑が立っています。一行は鞆の浦、長井の浦(現在の糸崎あたり)を経て風早の浦で風待ちのために夜泊したそうです。いにしえの瀬戸内海の航路には、島の少ない広い海域を一気に進む「沖乗り」と、海岸沿いを進む「地乗り」という2つの航路があったそうですが、航海術が発達していなかった古代には、地乗り航路を使い、港に細かく停泊して風や潮を見ながら進んだようで、風早もそうした港の一つとして古くから開かれたようです。

万葉歌碑

 【祝詞八幡神社の万葉歌碑です】

 その後、室町時代の初め、1338(建武五)年、将軍足利尊氏が発した文書に「安芸国三津村地頭職」という文字が見えるそうです。この地は当初、阿曽沼氏が地頭として支配し、後に竹原小早川氏の領地となります。1362(貞治2)年の竹原小早川氏の文書に「以木谷三津風早三ヶ村号三津村」と書かれていて、三津、風早、木谷の3つの村の総称を三津村と言い、それぞれの村に港があって、「三津三浦」と呼ぶ、ということが定着したようです。

 安芸津が港として本格的に発展するのは江戸時代のことです。1649(慶安2)年、広島藩が尾道、木浜(注2)、三原、竹原、三津に浦辺米蔵を設置、蔵奉行を置きました。江戸時代の各藩は、農民から年貢を取り立てて、それで藩の財政を賄っていました。藩内のすべての米を一度に全部広島へ集めるのは効率が悪いので、各地に中継地点として藩直営の蔵を設けたわけです。

 ところで、米で財政を運営すると言っても、あらゆる費用をお米で払っていたのでは不便です。そこで各藩は集めたお米を売ってお金に換えて、それで財政を運営しました。その際、米を最も効率よく換金できるのが大坂の市場でしたので、各藩は大坂へ米を運んで、そこで現金に換えるようになります。これを登せ米と呼びます。広島藩も大坂への輸送が便利な瀬戸内海に面した各地の港町から大坂・中之島の広島藩蔵屋敷にも米を運んでいました。その一つが三津の蔵でした。

 三津の村はもともと賀茂郡だったことからもわかるように、伝統的に西条など、賀茂盆地との結びつきが強い土地です。今でも賀茂盆地は広島県有数の稲作が盛んな地域ですが、上記の地図でもわかるように、当時、四日市と呼ばれる市が立った西条(東広島市中心部)から三津へ至る道は、賀茂盆地と瀬戸内海を結ぶ最短ルートで、三津小往還と呼ばれました。三津は安芸の国でも重要な米の集散地だったことがわかります。

御蔵所跡

【安芸津駅の近くに藩営の蔵の所在地を示す説明板が立っています】


 米はそのままでも藩の財政の重要な柱ですが、酒にすればさらに価値が上がります。広島藩も地元の有力商人の資本力や経営能力を生かそうと、米を払い下げて酒を造らせ、付加価値を高める政策を取ったようです。三津では江戸時代にすでに5つの蔵が酒を造っており、明治4年の廃藩置県後、酒造が株仲間制から免許制に変更されるとさらに増えて明治17年には23蔵を数えるようになったそうです。こうしたことは同じ米蔵があった他の地域でも起きたことで、例えば尾道では米を加工した酢の生産が盛んになり、「尾道造酢」という会社が戦後、キューピーのマヨネーズやドレッシング用の酢などの生産を一手に請け負うなど、今もその歴史は受け継がれています。

 また、江戸時代のこの地域は、瀬戸内の水運を生かした廻船業の拠点でもあり、三津三浦の1つ、木谷の浦は、1590石積みの船19艘が在籍し、広島藩で最大の大型廻船を擁する港だったといいます。藩の米以外に、瀬戸内の塩を域外に運んだり、逆に外から肥料用の干鰯、つまり干したイワシなどを運び込んでいました。こうした、米の集散地であり、流通の拠点であり、相応の富も蓄積して酒造業が盛んだった、外に開かれた港町で進取の精神が育っていたという背景が、日本有数の「三津杜氏」という技術者集団を生み出す歴史的背景であったと言えると思います。

 三津杜氏の起源をどのあたりに求めるかは難しいですが、篠田統・大阪教育大名誉教授は1957(昭和32)年に著した論文の中で、当時の杜氏組合長の「天保(年間)まで遡るのが関の山」との談を引きながら「もう少し古いのではないか」と書いています。いずれにしても江戸後期~末期には、この地域に一定の醸造技術が蓄積されていたことは間違いありません。ここで言う「三津」は、狭義の三津、すなわち旧三津町を指すのではなく、旧木谷村、旧早田原村も加えた、現在の安芸津町とほぼ同じエリアを指すと理解してください。

2.三浦仙三郎について
 こうした背景の中で、日本の酒造りに画期的な業績を残したのが、三浦仙三郎です。江戸時代の1847(弘化)4年に生まれ、1908(明治)41年、61歳で亡くなった人物です。三浦が生まれた家は三津で清水屋という屋号で雑貨問屋を営む商家で、仙三郎は7人兄弟の長男でした。1862(文久2)年、父親から家督を相続し、米や肥料も扱うようになります。さらに、1876(明治9)年には清水屋の経営を弟に譲り、地元の酒蔵を買い取って酒造業を始めます。前述のように明治維新後、酒の製造が免許制になって株仲間でなくても参画できるようになっており、仙三郎は単なる商売に飽き足らず、製造業に進出しようと考えたようです。

 ところが、仙三郎の酒造りは当初、失敗の連続でした。毎年、「腐造」と言って、酒を腐らせたり、「火落ち」と言って、できた酒を変質させたりということが相次ぎました。仙三郎は、醸造する蔵の衛生状態が悪いと考えて蔵を移転させたり、杜氏を変えたりして試行錯誤を繰り返しますが、うまくいきません。そこで、当時、最高の酒の産地として知られていた灘や伏見などの先進地に教えを乞いに行き、そこでようやく水質が違うという事実を知ります。

 ご存じの通り、天然の水には、カルシウムやマグネシウムなどの金属イオン、ミネラルの含有量が多いものを硬水、ミネラルが少ないものを軟水と呼んでいます。日本酒は、米を蒸してそこにコウジカビを植え付けて麹を作り、コウジカビが出す酵素の力で米のでんぷんを糖分に変えて、さらに酵母がその糖を食べてアルコールを生み出すことでできます。酵母の働きがとても大事なのですが、酵母が増殖するためにはミネラル分が欠かせません。灘や伏見の水は中硬水~硬水で、まさに酒造に最適でしたが、三津の水は硬度が低いため、うまく酵母が増殖できないのだと仙三郎は考えたわけです。
 しかし仙三郎をあきらめず、条件をさまざまに変えて酒を造り、ついに三津の水でも腐造を起こさず、良質な酒を造る技術を開発します。そのため仙三郎が築き上げたノウハウを一般に「軟水醸造法」と呼びます。

 広島国際学院大学の佐々木健・元学長らによると、実際には仙三郎が醸造を行っていた水源の硬度は56.9で、国税庁の基準に照らせば中等度の軟水に該当します。一方で灘、伏見、西宮あたりの酒造会社の扱う水は105~171とばらつきがあり、中等度の軟水に該当するものもあれば、軽度の硬水、中等度の硬水に該当するものもありました。一方で、広島県内の酒蔵の水も、西条や三原、竹原、広島市内などで硬度100を超える水もあり、一概に広島は軟水、灘、伏見は硬水とは区分できるわけではありません。

 仙三郎自身は、自らが獲得した知見を、1898(明治31)年に「改醸法実践録」としてまとめて出版しました。その原本は現在、国立国会図書館に1冊残っているだけでしたが、幸い、広島杜氏組合(石川達也組合長)がこの度、復刻してくださいました。それを見ると、その技術にはいくつかのポイントがあることがわかります。

 中でも最も重視したのが麹づくりです。清潔であることを第一に、地面の湿気の影響を受けにくくしたり、換気口を設けて温度や湿度の調節をしやすくしたりする麹室を開発して、雑菌の繁殖を抑えながら蒸米に十分に麹が入り込むようにしました。また、もう一つのポイントが温度管理で、麹づくりや酛造り、醸造の時の醪の温度、外気温などを、当時はまだ珍しかった温度計で正確に計り、それぞれの工程に最適の温度を割り出しました。特に、低温で時間をかけて発酵させることで雑菌の繁殖を抑え、香りがよく切れのある酒を造ることに成功しています。こうした製造方法は、後にさまざまな改良を経て、現代において最高の酒と称賛される吟醸酒の造り方につながります。まさに仙三郎が吟醸酒の父と言われるゆえんです。

 さらに、醸造に使う容器を熱湯で殺菌する際、一度だけでなく、日にちを置いて複数回殺菌する方法を提唱していますが、佐々木元学長によると、仙三郎は当時、まだ知られていなかった、「間欠殺菌法」と呼ばれる、科学的にほぼ完璧な殺菌法を自ら編み出していたことが読み取れるといいます。つまり、仙三郎は、まだ自然の微生物頼みの酒造りが行われていた時代に、水質の違いにかかわらず良質な酒を造るための技術を、独自の実験を重ねて科学的に確立した、と言ってもよさそうです。

 仙三郎がもっとも優れている点は、こうして開発した技術を独り占めするのではなく、むしろ積極的に公表し、自社以外にも惜しみなく教えて、地域の、さらには全国の酒造技術を向上させたことにあります。仙三郎は上述の「改醸法実践録」を出版しただけでなく、1902(明治35)年には広島杜氏組合の前身である「醸杜親和会」という組織を発足させ、酒造りの端境期である夏に講習会を開くなどして技術の向上を図りました。

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【改醸法実践録の内容。データを図表化して細かく記入している】

 こうした行動は、仙三郎が杜氏ではなく酒蔵の経営者であったことと関係があるのかもしれません。ここで日本酒の酒蔵における酒造りの態勢について説明すると、伝統的に経営者である蔵元と、製造の総責任者である杜氏、そして蔵の従業員である蔵人で構成されます。蔵元は製造にはタッチせず、資金の調達や販売を担当します。杜氏は蔵人の求人、育成から製造のすべてに責任を負い、造った酒の善し悪しが自身の所得や処遇に直結します。古い時代の杜氏は長年の実務の積み重ねの中で経験と勘を養い、それが技術として蓄積され、その極意は直系の弟子以外には簡単には教えないのが伝統でした。

 しかし、仙三郎は一定の教育を受けて科学の初歩的な知識があったこともあり、酒造りを科学的に分析することが大事であると考えました。また、それを丹念に測定、記録することで汎用性のあるデータにする方法も知っていました。さらに、技術を独占するのではなく、積極的に公開して地域全体の酒の水準を上げることで産地の名声が高まり、より多くの利益を生み出すということも理解し、実践しました。科学に基づくノウハウの体系化とその積極的な公開。ここに仙三郎の革新性があるわけです。仙三郎は1898(明治31)年、一度は乞われて三津町長に就任しますが、酒造技術の改良に専念したいという思いから、わずか5カ月で辞任してしまいます。このことからも、酒造りにかける情熱のほどを知ることができます。

仙三郎神社

【安芸津駅近くの神社の御旅所にめぐらされた玉垣にも三浦仙三郎の名前が刻まれています】


3.名醸地広島の発展と三津杜氏の活躍
 時あたかも1900(明治33)年、北清事変が勃発し、派兵した部隊に供給するため、広島市に置かれた旧陸軍糧秣予備倉庫で清酒の買い付けをしようとしたところ、灘などの大産地は入札に応じなかったのに対して、地の利もあって広島の酒造組合は積極的に入札に参加。仙三郎の「花心」、同じく安芸津町内で今も酒造りを続ける柄酒造の「於多福」と広島の「白茶」(注3)の三銘柄が契約先に決まりました。さらに1907(明治40)年、醸造協会が主催し、初めて酒造業者が一堂に会して開かれた全国清酒品評会で優等1等に藤井酒造(竹原)の龍勢、優等2等に三谷春(倉橋)が選ばれるなど、広島の酒が優等5点のうち2点、1等の48点のうち18点を占め、広島の酒の声価が全国的に一気に高まることになりました。

 広島の酒の名声を高めることに貢献したのは仙三郎だけではありません。酒造りに不可欠な精米をより高品質に大量にこなす動力精米機を開発した佐竹利市(りいち)が西条から出ています。この人はいまの世界的精米機メーカー、サタケの創業者です。広島県工業試験場の初代醸造部長として酒造技術の向上に努めた橋爪陽(きよし)、さらに、酒造業界はそれまで個人経営がほとんどだった時期に、大資本を集めて株式会社組織の賀茂鶴酒造を設立した木村静彦などの人々も大きな功績を残しました。

 こうやって仙三郎たちが技術者の育成を図ったおかげで、三津地域では酒造りに進む人が相次ぎ、ピーク時の明治後半~昭和初期には三津地域だけで杜氏が300人を超え、日本全国はもちろん、朝鮮、旧満州、ハワイにも進出しました。杜氏は必ずスタッフである蔵人を従えており、酒造業への出稼ぎ者は2,500人を数えたそうです。昭和の合併時の安芸津町の人口が11,000人余りで、そのうち半分が男性とすれば、就労可能な大人の、ほぼ2人に1人は酒造業に関わっていたことになり、まさに酒造りの町にふさわしい状況だったことがわかります。安芸津町内のある小集落の30世帯について調べたところ、杜氏ないしは杜氏の経験者が31人もいて、酒造りとまったく縁のない家は1世帯のみだったという話も聞きました。

 男子が成長して就労可能な年齢になると、親戚や近所の杜氏などの酒造関係者から誘いがかかり、次々に蔵で働くようになる、という状況だったそうです。かつて酒造りは、男たちが農閑期にふるさとを離れて、蔵に100日以上泊まり込んで働く出稼ぎ仕事でした。この地は平地が少なく農業だけでは収入が限られていた地域だったことや、古くから酒造りが盛んだったことに加え、早くから港町として開け、江戸時代に廻船業で広く交易をしていた土地だったことも、積極的に遠くに出稼ぎに行く気風を養っていたのではないかと思います。そして、出稼ぎで家を空け、正月も帰省が難しい男たちに代わって農作業や家事をこなし、子育てや高齢者の介護もして家を支えた女たちも、酒造りに欠かせない存在であったことを忘れるわけにはいきません。

 以来、広島杜氏組合の事務局は安芸津町役場(現在の東広島市役所安芸津支所)に置かれ、現在も毎年、夏に研修会を続けています。安芸津支所に併設されている安芸津歴史民俗資料館には、往年の酒造りに使われた多くの道具が展示されています。また、1955(昭和30)年には県立竹原高校安芸津分校(現在の県立豊田高校)に醸造科が新設されるなど、酒造りのための人材育成の歴史は受け継がれてきました(注4)。

醸造桶

【安芸津歴史民俗資料館で古い酒造道具を解説する石川組合長】


4.今も残る杜氏の魂
 ここで、現在の安芸津町に残る2つの酒蔵について紹介しておきます。まず柄酒造ですが、ここは1848(嘉永元)年、槌屋忠左衛門という人物が創業し、160年という長い歴史を誇り、現社長兼杜氏の柄宣行さんが6代目に当たります。先ほど、酒造業においては経営者と杜氏は分かれているのが通例だと言いましたが、近年は農閑期だけ出稼ぎで働くというスタイルが成り立ちにくくなったこともあり、特に小規模な蔵で、経営者自らが杜氏として生産も担うケースが多くなっており、ここもその一例です。柄酒造には先ほど、旧陸軍が買い付けたという話でも紹介した「於多福」という銘柄のほかに「関西一」、三浦仙三郎の名前を取った「仙三郎」などの銘柄があります。ここも先ほど紹介した明治40年の第1回の全国品評会で1等を受賞しておられ、爾来、毎日食事と一緒に楽しむのに最適な、日本酒の王道を歩むような酒造りをされています。

 柄酒造は今、大変おもしろい取り組みをされています。安芸津町の山間部に隠畑という地区があるのですが、ここもあまたの杜氏を輩出した土地です。この地区の皆さんがヒノヒカリという食用の米を使い、柄酒造で自分たちも作業に参加して、地域のオリジナルブランドの清酒「かくれ里」を2007(平成19)年から醸造し、全量を地域で買い取って楽しんでいます。この活動には同地区に住んでおられ、かつて鳥取県智頭町の「諏訪泉」の名杜氏として知られた鳴川喜三さんも参加されています。鳴川さんは、尾瀬あきらさんの漫画「夏子の酒」に登場する杜氏のモデルの1人でもあります。また、2018年に西条の酒蔵を舞台に制作された映画「恋のしずく」のロケ地にも選ばれ、先年亡くなった大杉漣さんや主演の川栄李奈さんなども、柄さんのお宅の座敷を使って撮影されたそうです。

 一方で柄酒造は2018(平成30)年の西日本豪雨災害で1メートル近くも浸水する大被害を受けました。これによって酒造りの心臓部である麹室が使用不能になり、醸造機器もほぼ全滅。柄社長はいったんは廃業を考えられたそうです。しかし、隠畑地区の住民の皆さんが総出で復旧作業を進め、それに映画関係者や柄さんの酒のファンも加わり、新たに麹室を水害の影響を受けにくい2階に作り直し、ついに再生を果たされました。三津杜氏の魂を絶えさせてはならないという、柄さんと地域の皆さんの熱い気持が、蔵の存続につながったわけです。

麹室

【麹室を新設して酒造りの復活を果たした柄社長】


 もう一か所が今田酒造本店です。ここは1868(明治元)年の創業で、「富久長」という銘柄の酒を造っておられます。ここも仙三郎の伝統を色濃く受け継ぐ蔵で、仙三郎の思想を表す言葉、「百試千改」をモットーにされています。5代目社長兼杜氏は今田美穂さんという女性で、彼女は東京で大手百貨店の文化催事を担当する仕事をされていましたが、Uターンして父親の跡を継ぎ、三津杜氏の指導を受けた後、自立しました。

 今田さんの蔵のすぐ上には、仙三郎の旧家が今も残っています。また、このほど東広島市重要文化財に指定された仙三郎の「改醸法実践録」の自筆草稿など、貴重な資料を受け継いで所蔵されています。

 一方で、ユニークな挑戦も盛んにされています。一つは、広島の酒米のルーツと言われる「八反草」の復活です。八反草は、現在、広島県で広く使われている酒米の「八反錦」などのルーツで、大多和柳祐という人が1875(明治8)年に育種に成功されたそうです。しかし、背丈が高く収量も少ないなど、栽培がとても難しい上に、米が硬くて麹づくりが難しいなどの弱点があって栽培が途絶えていました。今田さんはその種もみが広島県農業ジーンバンクに保存されていることを知って、安芸高田市の農家に委託して生産に取り組み、農家の熱心な協力もあって復活させることができました。

 また、酒造りには、伝統的な酒造法である「生酛」造りと、現代において主流になっている「速醸酛」造りという、大きく分けて二つの方法があるのですが、今田さんはその両方の利点を生かした新しい醸造法「ハイブリッド」という方法による酒造りもされています。

 もう一つの挑戦が「扁平精米」「原型精米」による酒づくりです。吟醸酒とか大吟醸というのは今日、良く知られています。酒造に適した米を精米して、60%の重量まで削った米を使うのが吟醸酒、さらに削って50%まで小さくして醸したのが大吟醸酒です。

 酒造りに適したお米の中心部には「心白」という真っ白な部分があり、ここはでんぷんの純度が高いのですが、米の外側に行くほどたんぱく質や脂肪などの成分が多くなり、それが雑味を生むのだそうです。そこで雑味の原因になる部分を削って、よりクリアな酒を造るのが吟醸造りです。

 しかし、従来の精米機では、元々ラグビーボールのような形をしている米の長細い部分ばかりが削れて、精米を進めると丸い形の米粒になります。この時、本当はでんぷん質が多い部分まで削れてしまって無駄が多いのだそうです。ところが、新たにサタケが開発した精米機を使うと、雑味の原因になる部分だけがうまく削れて、結果としてラグビーボールを横から押しつぶしたような扁平な米に仕上げたり、元の米の形状のまま小さく削っていったりすることができます。こうすれば、あまりお米を削らなくてもクリアで良質な酒ができるのだそうで、たとえば60%まで削って本来の基準では吟醸酒なのだけど、実際の酒の質は50%まで削った大吟醸並みの質の酒が造れる、というわけです。この技術も県内の蔵でいち早く昨年から取り入れておられます。

 日本酒業界全体が衰退する中で、安芸津でも現在残っているのはこの2つの蔵だけになってしまいましたが、いずれの蔵も経営者が自ら酒造りを手掛け、伝統をしっかり踏まえながら斬新な取り組みをしてよりよい酒を造ろうという姿勢を貫かれており、まさに仙三郎が育んだ酒造りの精神を受け継いでいる蔵と言っていいと思います。

今田酒造本店

【赤れんがで作られた煙突が残る今田酒造本店。右上に小さく写っているのが三浦仙三郎の旧居】


5.終わりに
 私はこの度、安芸津町で今も存命の、往年の名杜氏から話を聴く機会に恵まれました。賀茂鶴(東広島市西条)元総杜氏峠本忠義さん、土佐鶴(高知県安田町)元総杜氏池田健司さん、諏訪泉(鳥取県智頭町)元杜氏鳴川喜三さんの3人です。この3人とも、自分の後輩だけでなく、他の蔵の杜氏や蔵人とも情報交換を頻繁にして、自分の技術を高めるとともに、知識を惜しげもなく人に伝えてこられました。実際に、前述の今田酒造本店の今田さんは、まだ酒造りを初めて間もないころ、当時、現役だった池田さんを高知の土佐鶴酒造まで訪ねて、酒造りの神髄を教わったそうです。「わしらは造りの仲間じゃけえ、お互いに助け合わにゃあいけん」。そう語る往年の名杜氏の言葉に、三津の伝統を、仙三郎の魂を今に見る思いがします。

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 【酒造りの極意を語る安芸津の名杜氏。左から、峠本忠義さん、池田健司さん、鳴川喜三さん(2019年10月20日、東広島市安芸津生涯学習センター)】

 仙三郎が、あるいは三津杜氏が活躍した時代と比べると、日本酒造りの世界は大きく変貌しました。「国酒」と言われながらも、消費者の日本酒離れは続いています。一方で、季節労働者である杜氏、蔵人という就労形態は時流に合わなくなっています。また、オーナー経営者である蔵元と、製造責任者である杜氏を分けるシステムもだんだん崩れてきています。現在では、経営者自らが酒造りも担ったり、杜氏、蔵人を社員化して通年で雇ったりする蔵も増えてきました。さらに進んで、個人の勘や経験に依存するのではなく、優れた酒造りの技術をマニュアル化して、良質な酒を安定的に量産することで人気を博すメーカーも出てきました。

 しかし、時代が変わっても、常に新しい試みをして、より優れた技術を獲得し、それを独占するのではなく公開して、地域の産業の振興につなげるという、仙三郎が、三津杜氏が築き上げた精神は、ものづくりの基本として、今もその価値を失わないと思います。

【脚注】
注1 萬葉集は、序文と歌が基本となって構成されている。序文は通常、漢文調で書かれ、歌は漢字の音をあてて仮名にした「万葉仮名」で綴られている。該当部分は「風速浦舶泊之夜作歌二首」の序文のあと、「和我由惠仁 妹奈氣久良之 風早能…」となっていて、「風速」「風早」の2種類の表記が併存しています。
注2 藩営の浦辺米蔵が置かれた5カ所のうち、「木浜」が今日のどこを指すのか、わかりませんでした。
注3 広島市南区京橋の保田大吉という人が醸造した酒といいます。
注4 現在の豊田高校は普通科のみで、醸造科は置かれていません。 
 

【主な参考文献】
『安芸津町史・通史編』、『同資料編』(安芸津町史編さん委員会、東広島市)
『改醸法実践録・復刻版』(三浦仙三郎、広島杜氏組合)
『杜氏物語』(植野瞭三、渓水社)
『広島国際学院大学研究報告 広島発の秀逸バイオ技術、軟水醸造法の水質科学的および微生物学的要点』(佐々木健、佐々木慧、広島国際学院大学)
『広島県史』(広島県史編さん室、広島県)
『吟醸酒を造った男-「百試千改」の記録』(池田明子、時事通信社)
『日本醸造協会誌 百試千改 三浦仙三郎と「吟醸 」初見』(池田明子、日本醸造協会)
『広島の酒蔵』(中国新聞社編、中国新聞社)
『ゼロから分かる!図解日本酒入門』(山本洋子、世界文化社)
『吟醸酒誕生―頂点に挑んだ男たち』(篠田次郎、中央公論)
『三浦仙三郎 その生と死』(阪田泰正、安芸津記念病院史料室)
『京都大学人文科学研究所調査報告 西日本の酒造杜氏集団』(篠田統、京都大学人文科学研究所)
『日本古典文学大系 萬葉集 四』(高木市之助、五味智英、大野晋編、岩波書店)
『万葉集』(中西進、講談社文庫)

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