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丁度10年前の今日に書いたブログです

2015.1.17
今でもあの日の朝を鮮明に覚えています。
自宅の二階の寝室で寝ていたのですが
ゴォ~と言うような地響きというか、揺れに目が覚めました。

とっさにとった行動は、自分の布団を妻にかぶせました。 
その時妻は妊娠8ヶ月でした。 

すぐにおさまるだろうと・・・
でも 揺れは1分くらいは続いたでしょうか?

脳裏には、会社の「酒」が・・・
かなり倒れて壊れているだろうな・・・ と

朝のニュースで、神戸の街に黒煙が上がっている映像を見ました

今朝の地震は「神戸」だったんだ。 


ニュースを見るたびに、とてつもなく大きな地震であったことが伝わってきます。会社に到着した私は、ホッとしました。 

何千本とある商品の中で、破損していたのはワインが数本だけだったのです。

そのころの私は、広島青年会議所に所属しており、
その年はセクレタリーを務めさせていただいていました。

正副会で「神戸に支援に行こう」との話があがり、
すぐに「連れて行ってください」と申し出ました。

広島青年会議所(JC)のメンバーから、
様々な食料物資をいただき(魚・肉・牡蠣・水・・・)トラックに積んで、朝早くに広島を出発しました。 

車には「救援物資運搬中」と明記し、
山陽自動車道を朝日に向かって走りました。

岡山県を過ぎて兵庫県に入る頃から、
家々の屋根にブルーシートが目立ち始めました。 

そのブルーシートの数が、少しづつ増えているのがわかりました。

高速を姫路で降りて、現地のJCメンバーに先導してもらい神戸の町に入りました。 

目的地は長田地区です。

目を覆いたくなるような惨状と、鼻を突き刺すよな焦げた匂い。
直線ですすめば、すぐの距離を、迂回して迂回してすすみます。 
メイン道路は片付いていましたが、路地に入るとそのはまだ地震直後の様相でした。

長田地区の学校の校庭にトラックをとめ、準備にかかりました。
ドラム缶を改造した大型コンロで炭をおこし、金網をのせて
焼き肉・焼き魚・焼き牡蠣を 皆さんに配り始めました。

長打の列ができていましたけど、誰一人として割り込んだり、
文句を言う人はいませんでした。 
私は、お渡しする係りをしていました。

かなりの量の材料をもってきていたので、多くの方々にお配りすることができました。

「頑張ってくださいね」

「熱いので気をつけてください」

そんな声をかけながら数時間経ったころでしょうか・・・


隣にいたメンバーが
「お前 なにを 言いよるんや!」と声が聞こえます。 

ふとわれに返りましたが・・・

その時の私は、食事を皆さんに渡しながら

  「ありがとうございます」 

  「頑張ってくださいね。本当にありがとう」


そんな言葉をかけていました。 

自分では無意識だったのですが、自然と口から出た言葉でした。
疲れとるんじゃろう、少し休めや! と 言われましたが、
まったく疲れを感じていない自分にビックリです。

朝早くから出発し、運転し、焼き続けて・・・ 

疲れ という感覚がまったくありません。

それから1時間くらいして、
食材もなくなり、片づけをして広島への帰路につきました。

学校を出るときに、子ども達が手を振って

「ありがとう! 気をつけてね~」と声をかけてくれました。

その時の子ども達にも「ありがとうな!」そう声をかけていました。


真っ暗な高速を広島に帰りながら・・・
なんで「ありがとう」と言ったんだろうと考えました。

同行したメンバーはみな疲れて寝込んでいます。 
静かな車内でゆっくりと考えることができました。

そして思いました。

「支援物資を届けて、なにかお役に立ちたい」
という気持ちででかけました。

そこには「感謝されたい」そんな気持ちはありませんでした。

が・・・


食事を手渡しながら、多くの方々からの感謝の言葉をいただきました。
私がお渡ししたのは「食事」ですが、

そのお返しに「感謝」という気持ちをたくさん、沢山いただきました。 

そのことに「ありがとう」と言葉が出たのだと思います。
その感謝の気持ちをいただいたことで、

疲れを感じずに、笑顔で動き続けることができたのかと思います。

    「ありがとう」って すごい言葉ですね

その時に生まれた子どもが 成人式を迎えました。


昨年 長田区に 伺った時には その当時を想像させるんものは

なにも 見当たりませんでした


鉄人28号が とても頼もしく思えました