音のない写真の陰に萎れた花
「ん?何だろうこの感覚は...」と思いながらインスタグラムを見ている。私がフォローしている方々がそういうタイプなのか、それとも最初はそうではなかったけど徐々にそういうタイプになったのかは今となってはわからないが、「丁寧な暮らし」「質素でも丁寧に暮らしています」というテーマの写真や記事が多いのに気がついた。最初はただ単に「そうなんだね〜」という気持ちで見ていたが、今は「ん...?」な感じで見ている。
確かに派手な暮らしではない。インテリアや生活様式などはどちらかというと素材重視で素朴感が溢れている。季節仕事と銘打って季節の手作り食材を作る。梅を漬けたり、辣韮を漬けたりして春夏秋冬の仕事をこなす。その合間に手作りの素朴なお菓子を焼き、素朴な本や雑誌を読み、決して過激ではない映画を観たり、そして部屋は木製の家具にナチュラルテイストの付属品。それらの写真は一様にアンバーな照明で撮られている。それが悪いと言っているわけではない。それらを自分らしい生活として自然にやっていますか?という疑問が私の中にある。
「丁寧な暮らし」というテーマを掲げる雑誌や書籍やインスタグラムなどが女性たちに大人気だ。女性たちといってもある年齢層の女性たちで、若い女性はそんなことより弾けてキラキラしたい。もっと年配の女性は丁寧な暮らしより今の体調や老後の生活が気になる。女性たちというのはまさしくその中間の年齢層で、若い子ほど弾けて遊ぶほどの冒険はできないし、老人のように体のことや老後の心配など辛気臭い話はしたくない。ましてや孫の世話で1日が終わるのなんて退屈極まりない。そういう人たちが何か私たちにピッタリなアピール方法はないものかと飛びついたのが「丁寧な暮らし」というテーマなのではないかと思う。言葉の響きがお洒落であると同時に...
私は流行に飛びついたり、ブランド物を崇拝するような下品なこともせず、かといって質素でも貧乏くさくもなく、良いものを吟味できる目を持って、それを活かしながらそこそこ洒落た生活をしています。
もってこいのテーマである。
インスタグラムの素敵な写真を拝見し、雑誌のお洒落たインテリアを拝見し、書籍による丁寧な暮らしを提案する著名人の方々を目にして思うのは、
「丁寧な暮らしって疲れませんか?」
あるコラムで「女性を苦しめる丁寧な暮らしの呪縛」と、いうのがあった。
丁寧な暮らしに憧れるけど、いろんな事情でできないという悩みをもつ女性が多いらしい。心底それが憧れでやりたいなら努力して頑張ってやればいい。でも一時の流行ではないのかということもある。本当はもっと楽な生活がしたいのではないのか?最終的にはインスタ映えのためではないのか?そんな疑問が湧いてくる。
「私ってサバサバした性格だから...」と、自ら言う女性に限って裏側はとってもベタベタネチネチしていて、そのギャップで自分自身が疲れているということがある。それに似ている。こうでありたい(こう見られたい)という呪縛が疲れを呼んでいる。
雑誌や書籍やインスタの中の丁寧な暮らしは、本当にそれが自分の生き方として着実に無理なく自然に取り組んでいる方も確かにいる。でも「これくらいやっとけば、私ってお洒落...」程度でやってる人もいる。両者を同じ括りで丁寧な暮らしに憧れるのはちょっと違う。暮らしのやり方は他人に迷惑をかけない限り自由でいい。その人の子供の頃からの生き様が暮らしに出ると言っても過言ではないと思う。その生き様を基盤にした生活の方がその人らしくて楽で素敵だと思うのだけど...。
私は、丁寧な暮らしより楽な暮らしがしたい
それもひとつの生き方。猫も杓子も丁寧な暮らしを目指す必要はない。もうお分かりと思うが、私も楽な方に偏った生活をしている。丁寧さも魅力ではあるけど、そのために何か疲れることをしなきゃいけないのならそんなのはいらない。
楽しく暮らしたい。毎日、ニンマリしながら陽気に暮らしたい。