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ある日。 から始まる日記

武田百合子さんのこと。

武田百合子さんの『富士日記』を読もうと思って購入したが、一緒に購入した『日日雑記』を先に読んだ。
日記形式で日々のいろんなことが書かれているのだが、この日記には日付が記されていない。
どの日の日記にも日付の代わりに『ある日。』と書いてある。
(お正月の日記にだけは『正月三ガ日』と書かれてる)
それを読んで私は理由もなく、「なんかかっこいいな」と思った。
日付の有無はとても重要な時もあるが、果たして日記に日付は必要なのだろうかとふと思う。誰にも見せない自分だけの日記にはきっと日付は必要なのだろう。いつ何があってどんなことを思ってどう処理したか、その出来事の経過を知ることは今後の生き方に影響するかもしれない。
でもブログなどで書く日記は、誰かが読むことを前提に書かれたものだ。読む人は日付のことなど気にしているだろうか?どんな生活をおくってどう思って生きているのかに興味を持って読んでいるのではないだろうか。だから日付がなくてもさして問題は起こらないような気がする。
武田百合子さんもそこらへんに気がついてらっしゃったのか、あるいはまったく違った意図があったのか、本人に聞いてみたい気がするが残念ながらもうすでに旅立たれてしまった。かといって、私が武田百合子さんの真似をして『ある日。』と書き出したとしてもそれはかっこよくないのだ。武田百合子さんだからかっこいいのだと私は知っている。
だから私に関しては、今まで通り代わり映えのしない日記をこれからも投稿していくことになりそうだ。
悪しからず。

さっぱりとして淡々として、しかしそんな中に執拗な観察力があって、すべての文章を暗記したくなるような日記だった。毎日あーでもないこーでもないとダラダラと書き綴る私の日記とは大違いだ。
特に好きな箇所は、飼い猫が亡くなった時の描写だ。


私はバナナを食べながら、この猫がうちにきてからのいろいろなことを、どっと思い出して、食べながら泣いた。

「日日雑記・151ページ」

かわいい人だったんだなと思う。

元旦。起きて外見る。人の姿車の影なし。また眠る。
二日。起きて外見る。年始回りの夫婦が桜並木の道を歩いていく。正装の女房をつれて、普通のみなりの男が歩いて行く。

「日日雑記・7ページ」

まるで映画の脚本の一部のようだ。
そういう人だったんだなと思う。
ご存命の時に会いたかった。

これから『富士日記』を読む。
また彼女に夢中になりそうだ。


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