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あふれんばかりの奇妙でわがままな願望

短い時間の長い瞬間
14話[あふれんばかりの奇妙でわがままな願望]

綾乃は3時の休憩時間に剣志からのLINEを見た。
なんとか平和的に話し合いがなされてほしいと思った。
美涼やあの怖い男からの電話はあれからかかってこない。だからといって美涼の状況が改善されたわけではないだろう。改善どころか以前より悪くなっている可能性の方が高い。綾乃は『覚醒剤中毒者の現実』というドキュメンタリー番組をテレビで見たことがある。その中のリアルな映像が頭から離れない。あんなことは別世界の人たちのことと思っていたが、今現実に知人がそうなってしまっている。剣志の元妻と思えば自分には関係のないことのようにも思うが、美涼は高校の先輩でもある。
いずれ剣志と結婚するつもりでいる綾乃は剣志と美涼の子供である美佳のことも気になっていた。先日、剣志に「美佳を引き取るかもしれないが、それでも結婚のこと考えてくれるか?」と聞かれて一瞬返答に困ったが「大丈夫。私もできる限り協力する」と答えた。でも相手はまだ5歳の子供だ。この状況をどう理解し受け止めてくれるか心配だった。

その夜、剣志は美涼の実家でご両親と美佳と4人で食卓を囲んでいた。
剣志のために張り込んだであろう、丸い大きな寿司桶に入った高級魚が並ぶ寿司がこたつの上にあった。
「剣志さん、以前これ好きだって言ってたでしょう」と、寿司の隣にがめ煮も置かれていた。
美佳は久しぶりに父親に会った気恥ずかしさもあるようで最初はおとなしかったが、みんなでお寿司をつまんでいるうちに「パパ、パパ」と、嬉しそうに話しかけてきた。お土産のお絵かきセットもたいそう喜んで色鉛筆を一本一本確かめてはニコニコしていた。散々しゃべって疲れたのだろう、しばらくすると美佳はこたつの一角で座布団を枕に寝てしまった。
「美佳がこんなに笑って楽しそうにおしゃべりしたのは、本当に久しぶり。ちょっと疲れたんやろね」と、義母が美佳の頭を撫でながら言った。

三人の大人は美佳がしっかり寝入ったのを確認してから本題に入った。
ご両親の意見は「単なる家出ならもう30を過ぎた大人なんだから自分の責任で何とかするだろうけど、覚醒剤をやってるという事実もある。厄介な人物も関わっているようだし、もう私たち素人の力ではどうにもならないところまで来ている。もう警察にお願いして捜索してもらうしかないと思っているのだけど、どうだろう?」ということだった。
剣志はいくら離婚した元妻とはいえ、警察沙汰になるのは心苦しいものがあるが、素人ではどうすることもできないというご両親の考えも理解できる。下手に素人が手を出してしまうと被害が広がってしまう可能性もある。実際に綾乃に変な男から電話がかかってきたりしている。
剣志は「同意します。もうそれしか手がないかなと」

義母が泣き出した。

「それで、美佳のことなんだが」義父が言いにくそうに剣志の顔を見た。
「この子の面倒をみてやるのがわしらの務めだと重々承知しとるばってん、わしらもこの通りの年寄りで思うように動けんとたい。剣志さん、無理を承知でお願いするんだが、美佳を引き取ってはもらえんだろうか」
「もちろんそのつもりで来ました。美涼さんと離婚する時、どうしても自分で育てたいと言われて私も泣く泣く諦めたという経緯があります。ですから こんな時こそ自分がちゃんと意思表示をしなきゃと思っています」
剣志はこういう方向に話が進むことをあらかじめ予想していたし、もし違う方向に行ったとしても自分が引き取ると言うつもりだった。
「それを聞いて安心した。この子もこんな田舎で人目に晒されて生活するより剣志さんのところの方がどれだけ幸せかわからん」

義母が下を向いてしゃくりあげるように泣いている。

「ひとつご報告しておかなければならないことがあるのですが、私は現在お付き合いしている女性がいます。その人とは近々籍を入れようと思っています。その人も今回のことは承知していて、美佳のことも協力したいと言ってくれています。美佳も今すぐとはいかないまでも、きっと懐いてくれるのではないかと思っています」
綾乃が美涼の高校の後輩だということは言わなかった。狭い町だからどこでどう噂が広まるかもわからないと思ったからだ。

「そうですか、それは良かった。そういう方がいるなら尚更安心です。美涼のせいで剣志さんにもいろいろ迷惑かけて本当に申し訳なかった」
義父が土下座に近い形で頭を下げた。
とても長い時間頭を下げ続けた。
「いえ、夫婦の問題はお互い様です。どちらが一方的に悪いわけではないのでどうか頭を上げて下さい」
その言葉で義父はやっと頭を上げた。

美涼の捜索願についてはご両親に任せることにして、美佳は春の新学期から東京に連れてくるということで話がまとまった。
夜10時過ぎ、そろそろ博多方面への電車がなくなるということで剣志は美佳が起きないようにそっと帰り支度をして美涼の実家を後にした。
ホテルに戻り、部屋の冷蔵庫にある缶ビールをあけて窓の外を眺めながらビールを飲む。飲みながら自分と関わりのある大勢の人たちのことを思った。
みんな何かと闘いながら生きている。まだ小さな美佳でさえ母親に捨てられたストレスと闘っているのだろう。自分も綾乃もこれから先どんな問題が待ち受けているかもわからない。綾乃が先日「美佳ちゃんに嫌われたらどうしたらいいだろう...」と呟いた言葉も剣志の頭をよぎる。
美涼のご両親もあの小さな町で周りの目に晒されながら娘にこれから起こるであろう厄介な問題と闘わなければならない。
窓の外を歩く見知らぬ人々に目をやる。その人々でさえ人には言えない何かを持ちながら懸命に生きているのだろう。かといって、時間は都合の悪い部分だけをショートカットするわけにはいかない。
1分1秒、覚悟して生きるしかないのだ。
銃弾はどこから飛んでくるか誰にもわからないのだから。

つづく


*1話から14話までマガジン『noteは小説より奇なり』に集録済。


あらすじ
それぞれが何かしらの問題を抱えて生きている複数の男女がいる。まったく違った時間の中で違った価値観で生きているが、それぞれはどこかでちょっとずつすれ違っていく。そのすれ違いは大きな波を呼ぶのか、単なるさざ波のようなものなのか、まだ誰も自分の未来を知らない。
病気、薬物中毒、離婚、隣で起こっていても不思議ではない物語は徐々に佳境を迎えつつある。
主な登場人物
菜津:東京で働く女性
剣志:東京で働く男性
美涼:剣志の別れた妻
綾乃:剣志の現在の恋人(美涼の高校の後輩でもある)
美佳:剣志と美涼の子供
斉藤優里亜:大学病院・消化器内科の医師

読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。