見出し画像

忍従せざるを得ない不機嫌な人生

短い時間の長い瞬間
13話[忍従せざるを得ない不機嫌な人生]

菜津は会社を2時半で早退して大学病院の相談室にやってきた。
上司に早退の理由を聞かれて「胃の検査で何かひっかかってしまって病院に呼び出されています」と、そのまま正直に伝えた。心配をかけるかなとも思ったが、相手は会社の上司であって家族とは違う。正確に物事を伝えることの方がいいに決まっている。でも両親にはこのことは言っていない。古い人間だから「検査でひっかかって...」などと言うともう余命宣告をされたかのように戸惑うだろう。両親には詳細な結果がわかってから言えばいいやと思っていた。

病院の事務係のような人に案内されて相談室に入って数分後、初診の時にいた看護師とまったく知らない男性医師と斉藤優里亜医師の3人が入ってきた。
斉藤優里亜医師が「わざわざ来てもらってごめんなさいね」と口火を切った。それから看護師と男性医師がそれぞれ自己紹介をした。
看護師が渡辺良子、男性医師が高橋健という名前で、これからの私の治療を手助けしてくれる主要メンバーらしいが、いろいろいっぺんに言われてもさっぱり頭に入らなかった。
「家族と一緒にと言われてましたが、私なりの考えでひとりで来ました」と、斉藤優里亜医師に向かって言ったら「大丈夫ですよ。ご家族にはまた折りをみてお話しすることにしましょう」と、笑いながら変に優しい声で言った。気を遣っているのがありありとわかる声だった。
そして続けて「ご結婚はしてる?してるとしたら子供さんとかいるのかな?」と、さっきの笑い顔を崩すことなく聞いてきた。
「いいえ、独身です。家族は両親と弟がいるだけです」と、ちょっとぶっきらぼうに答えてしまって、なんで私はこんなにイライラしているのだろうと自分が嫌な女になったような気持ちになった。
こんなところに呼び出されるのは、きっと軽い病気ではないはすだ。さっさと本題に入ってさっさと今後のことを決めてほしいと菜津は思っていた。
病院側の患者にショックを与えないようにという配慮は理解するが、菜津はそういうのを喜ぶ性格ではない。いくらいたれりつくせりの配慮があったところで自分の病気が軽くなることはない。今のこの時間をお互いに有意義に使いたいと思っていた。

「それで、今回の検査結果なんですが…」高橋医師が口を開いた。
菜津はついに来たと思いながら高橋医師の方を向く。
高橋医師は自分が持参したノートパソコンを開き、菜津が見えるように画面の向きを変えて置いた。
「これを見てもらっても何が何だかわからないかもしれませんが、この胃の内部全体に這うようなデコボコが見えると思いますが……」
菜津は目を凝らして画面を見つめるが、こういうのは素人に把握できるものではなし、健康な人の胃の中を見たことがないのでよくわからない。でもなんとなく美しくはなく歪なものが写っていることだけはわかった。
「申し上げにくいのですが、病理検査の結果、腫瘍は悪性でした」
「はい。ここに呼ばれた時点で胃炎とか胃潰瘍とかではないのはわかっていました。それで…これから私はどうしたらいいのでしょう?」
自分では毅然と答えたつもりだが、どこかショックの欠片があったのだろうか、斉藤優里亜医師が「大丈夫?」と心配そうに菜津の顔を覗き込んだ。
「それともうひとつお伝えしなきゃいけないことがあります」
「はい」
「その悪性腫瘍の種類なんですが、スキルス性胃癌というものでして、胃癌の中でも発症率が少なくてちょっと厄介な癌になります。わかりやすく言うと胃の粘膜表面から発生する通常の胃がんと違って、胃壁の内部を這うように病巣が広がっていくのがスキルス性胃癌です。それで健康診断等では発見されにくくて発見された時にはもう末期という厄介さがあります」
「はぁ。じゃ〜私はもう末期ということなんですね」
「……はい」
斉藤優里亜医師が少し声を高くして「高橋先生、ここでそんなにはっきり言わなくても……」と、言ったが高橋医師は「ここで曖昧に誤魔化すことが双方にとって意味があることとは思いません」
その発言の後、数秒間誰も口を開かなかった。
「スキルス性の胃癌って、医療系のテレビドラマで見たことがあります。ドラマの内容が事実かどうかわかりませんが、あれに近いような感じに私はなるってことですよね」
菜津はテレビドラマのことなんか持ち出してちょっと軽薄かなと思ったが、今まで大した病気になったことがない菜津にとってはテレビドラマなどで得る医療の知識くらいしか持ち合わせていなかった。
「そのドラマの内容がわからないので何とも言えませんが、これからそれ相当の治療をしていかなければなりません。辛い治療となるでしょう。その辺を今日はご家族も交えて相談したかったのですが」
「今日の話の内容は私から両親に伝えます。その後どうするかはまた両親と相談してお伝えします。それでもいいですか?」
「わかりました。私もどうすれば最善の治療ができるか再度考えてみます。今後の細かいスケジュールについては、看護師の渡辺からお聞き下さい」そう言って高橋医師はノートパソコンを抱えて相談室を出て行った。
「これから大変になるけど、何でも相談に乗るから」斉藤優里亜医師はこれ以上の微笑みは持ち合わせていないというくらいの笑みを浮かべて菜津の目を見て言った。
菜津は自分がけっこう冷静なのに驚いていた。きっとこういうことは後になってずっしりと心と体に響いてくるのだろうが、今は冷静な自分を褒めてやろうと思う。
渡辺看護師がファイルから様々な書類を出して「これからいろいろお世話させて頂く渡辺です。よろしくお願いします」と書類のひと固まりを菜津の方へ差し出してきた。
「私は午後の外来の時間なのでここで失礼します。頑張ろうね」と言って斉藤優里亜医師が相談室を出て行った。

渡辺看護師は、頼りになるお姉さん的な雰囲気を持っていて医師たちとは違って自然な笑顔と自然が話し方で好感が持てた。
「来週月曜日から入院になります。事前のカンファレンスでは本当は今日からでも入院した方がいいと高橋先生は言ってましたが、会社のことやご両親との相談などもあるでしょうから来週からということで手配いたしました」
「はい」
「入院したらいろいろ検査が始まります。検査内容と検査の承諾書と入院申込書などの必要書類をここに入れておきますので、よく読んでいただき入院当日に署名捺印して持ってきてください」
「はい」
「入院当日は朝9時から10時の間にお越し下さい。1階の外来受付の横にある『入院受付窓口』にこの用紙と保険証と診察券を添えて提出してくださったらその後の案内をしてくれますから」
「はい、わかりました」
「何かわからないことありますか?」
「いえ、大丈夫です」
「それでは、何かありましたらいつでも電話下さい。病院の代表電話にかけていただいて、『消化器内科の渡辺に繋いで』と言えば大丈夫ですから」
「ありがとうございます。お世話になります」
「じゃまた来週。お気をつけてお帰りくださいね」

菜津は30分ほどの間に、自分の残りの人生が決定づけられたような気持ちになっていた。今までそれほどのトラブルもなく当たり前のようになに食わぬ顔で生きてきた自分がまるで他人だったかのように目の前から去っていく。今、ここにいる自分は姿形は以前の自分と何ら変わりはないが、中身は100%違う自分になってしまった。
病院の正面玄関を出たところで、一瞬立ち止まる。

さて、私はこれからどうすればいいんだっけ?



つづく

*1話から13話まではマガジン『noteは小説より奇なり』に集録済


あらすじ
それぞれが何かしらの問題を抱えて生きている複数の男女がいる。まったく違った時間の中で違った価値観で生きているが、それぞれはどこかでちょっとずつすれ違っていく。そのすれ違いは大きな波を呼ぶのか、単なるさざ波のようなものなのか、まだ誰も自分の未来を知らない。
主な登場人物
菜津:東京で働く女性
剣志:東京で働く男性
美涼:剣志の別れた妻
綾乃:剣志の現在の恋人(美涼の高校の後輩でもある)
美佳:剣志と美涼の子供
マサル:美涼の幼馴染
斉藤優里亜:大学病院・消化器内科の医師



読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。