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さまざまな人生に、それぞれの1時間を

短い時間の長い瞬間
4 [さまざまな人生に、それぞれの1時間を]


老夫婦とみすずとかいう女性の会話は続いている。
菜津は聞くとはなしに聞こえてくる会話を断片的に聞いていた。

「みすず、もうみかちゃんば連れて田舎に帰って来んね」
「田舎へは帰らないよ、田舎なんて何もないし」
「都会におってもおまえには何もなかろう。旦那とも訳のわからん理由で離婚して、子供抱えて、仕事もアルバイトだろ。みかちゃんがかわいそかよ」
「化粧ばかり派手になってぇ、それが都会の流行りね。せんぜん似合うとらんよ」

「化粧...」その言葉が聞こえてきた時、菜津はハッ!となって思い出した。
そうだあの時、セスナ機の中で夫婦喧嘩していた女性だ。
化粧がはげていると旦那に言われ、高い化粧品じゃないからはげるんだとか、あんたの稼ぎが悪いから安物の化粧品しか買えないとか、そんなふなことを言っていた女性だ。
菜津はこの東京のカフェで偶然にあの時の女性に会ったことよりも、やっぱり私の思った通りあの夫婦は離婚したんだなとそっちの方に納得した。でもあの時の旦那の顔がどうしても思い出せない。少し思い出そうとしてみたが影も形も思い出せなかった。
菜津はスマホで休憩時間の残りを確認して残りのコーヒーを一気に飲み干し、身支度をし、片付け台にカップを置いて外に出た。
「ありがとうございました〜」やる気のないスタッフの声が店内に響く。
もう彼女らの会話は聞こえないが、「あの人は田舎に帰るのかしら」とさして興味もないのにカフェの中のその女性のを振り返って見た。
その時、胃にチクッとした痛みを感じた。最近、コーヒーを飲んだ後に時々感じる。いつも数分後には痛みは治っていて特に気にすることはなかった。
あと3分しかない。菜津は職場へ急いだ。

美涼は都会の真ん中にあるこのカフェで、両親と一緒にいることが恥ずかしくてならなかった。田舎者丸出しで、父は周りの雰囲気を壊すような大きな声で喋り、母はうっすら涙まで浮かべている。さっき出て行った女もこっちの方をチラチラ見ていた。きっとバカにして見ていたのだろうと美涼はこの場所を指定したことを後悔した。
父親が必死になって話す内容などこれっぽっちも耳には入ってこなかった。それより何とかしてこの両親を早く田舎に帰してしまいたかった。

数日前のことだ。美涼の娘の美佳が夜間保育園で高熱を出してしまった。美涼は居酒屋でアルバイト中でスマホはロッカーの中にしまってあって保育園からの連絡には気づかなかった。
美佳は高熱に加え痙攣を起こし始めて保育園のスタッフが仕方なく美涼の許可なしに救急病院へ連れて行った。その時に美涼との契約書に書いてあった美涼の両親の連絡先に連絡がいってこの両親は慌てて東京まで駆けつけたのだ。
病院で顔を合わせた3人の大人は、子供の容態よりもこの先どうしていくのかという問題の方が大きくのしかかっていた。
美佳の容態は今は落ち着いているが、その後医師から「美佳ちゃんの今回の発熱と痙攣はてんかんの要因があります」と告げられる。
顔面が強張る美涼の両親に対して、美涼は意味がよくわからずキョトンとした目をして「何ですか?それは」と、呑気に医師に尋ねていた。詳しく説明を受けても美涼にはあまりよくわからなかった。
後からやってきた保育園のスタッフに容態を説明すると「そういうことでしたら、もううちで預かるわけにはいきません」と告げられて、美涼はやっとことの重大さを認識したのか、ただ呆然とベッドで眠る美佳を恨めしそうに見ていた。美涼の両親は床に頭がつくほど腰を曲げて保育園のスタッフに「今回は申し訳ありませんでした。何とかこれからも預かって頂けるわけにはいきませんでしょうか?」と頭を下げている。
美涼は心の中で「チッ!」と舌打ちをした。



「このままじゃ、美佳ちゃんがかわいそう。だけん、戻ってこい」
父親がまた大きな声で言った。
「何とかして預かってくれる保育園を探すからちょっと待ってよ」
「何を意地になっとるとか。田舎がそんなに嫌ね?」
「おまえの意地のせいで美佳ちゃんがどうなんてもよかとね」

ひとりの人間の人生を決めるのには短すぎる1時間だった。

つづく

前回までのお話
1話 セスナ機は世界のどこかの空の中
2話 信号待ちの彼方にセスナ機のまなざし
3話 見知らぬ人々の見知らぬ時間にて


読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。