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ソーシャル・キャピタル摩耗のホーム感

サティがイオンに変わっただけで、それまであった人間関係や資本関係がカンタンに崩れるだけではなく、そこには座る場所も無くなってしまう。

家とHOMEは違うということはこれまで明晰できたと思う。が社会システム論でいう、子供の感情面の安定化を図れる機能は、家だけではなく、HOMEを感じることができる、つまり座る場所があるところで、懐かしい匂いがするところだ。

長いこと職場にいると、家よりも職場のほうが何故か落ち着くこともあるように、HOMEとは自分の持ち家に限ったことではない。

勿論、持ち家はあるにこしたことがない。18世紀農民が都市部へやってきたとき、アパートメントなどに住みこみしたはずだ。それが工業化にともなって、社会のいち員となることの契約になるのだ。この契約では持ち家は快適なほうがいい。保留。

どっちにしろ、HOMEは認知できる人的にモノ的にも資本関係が構築されていることが望ましい。望ましいというか、そうでないとHOMEを味わえないのだ。

HOME機能がこれで、持ち家でなくともよくなった。

懐かしい匂い、座る場所があるだけでいいのだ!!

都市部において、宮台真司首都大学教授が定説する第四空間としてクラブというのは、カフェとかでもできないHOME機能を提供できていたと思われる。僕は一時期、オンジェムとかジュールとかHOME感を感じてた時もあった。あったけどそれを奪われてしまったのだーーーがははは。取り戻すぞ〜〜〜。はははは。

ということだ。

ソーシャル・キャピタルとは、このHOMEを感じることができる人的資本のあれかもしれない。

サティがイオンに変わっただけで名前どころか、まったく別の街になってしまう。労働力の再生産、安定したパーソナリティの獲得には、キャピタルゲインだけでは無理だ。キャピタルゲインが第一目標の資本流動化は入れ替え可能であり、だーれでもいい。

そこで誰でもいいわけでもないし、いいわけでもある、宗教というものは、全ての人に開かれている。

クラブが教会のように、救済されない凡夫を受け入れる機能があると考えている。(まあだから、サロン的な招待制Partyイベントはおもんないんだな)

インターネットもそうであった!かつて。それは米軍のARPANETに、対してなんでもいいわけだし、まあこれはいいや!後で

クラブという空間は、まあ実際、現在の形は音楽を流す交流場のような感じになっているが、これは形式化されたものの再集合体であるとする。それの元は何かと言えば、教会のようなもの、や、かつて村の集落にあったようなお祭り事だ。

ドイツと日本の家父長制はすごくよく似ていると、あのー、あのひとが言っていた、そのー、あれ、エマニュエル・トッドだ。人類学者だっけ。専門だもんな。これについてまったく掘り下げていないのだ(困った

じゃあクラブを形式化すれば、でてくる出力は、何か、まあ各自各々考えてみても面白いし。音楽がかかる場所なのか、いやそんなのどこでもある。イオンでも音楽がかかる。DJが音楽をかける。イオンでもDJが音楽をかけるイベントがあるかもしれない。イオンではなく、クラブじゃないとだめだぞ。

じゃあDJが音楽をかける場所ではないのか。じゃあ、さまよえる人々が音楽に救済を求めて集まる場所。

さまよえる人々が音楽に救済を求めて集まる場所。????

それって、クラブに来ている人って、みんなさ迷える子羊なのか

いやいや、近代化は分業により人々を孤立化させ、会話を駆逐することに成功した。失語症患者同士がゼーレ魂を交換するには、超越的な音楽が必要だ。

共通前提を作り上げ、それを介してコミニュケーションを図ろうとする図式は80年代から、オタク文化として見られた。団地では、何が共通の前提になっているのかわからない。オタク〜〜クラブ〜〜、アニクラ??!!

おたくは、コミケにくる人間が、相手のことを、おたく、おたくと言っていることをポストモダンの、秋森、え?名前忘れた。

共通前提の崩壊、リーマンショック後、の世界。ずっとこの3,4年どっかで書き続けていることだ。ソレに加え2000年の呪いも16年間どっかで嗅いてきた。日増しにひどくなっていく一方だ。

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