ポスト実存主義を改て構造機能主義、いやなんでもいい。

構造機能主義というのはなにか、なんでもいい。2003年9月に死の先に見つけたものがなんだったのかをこの何千年もかけて考えてきたわけで、それがこの前まではポスト実存主義という便宜上の名前でした。これには間違いなく英国のバンドRadioheadのベースのコリンの発言が帰依しています。「僕たちはもっと実存をなんたらかんたら」と廃刊した雑誌SNOOZERで語っていたのです。ただそれだけのことです。そこからヒントを得てポスト実存主義にしたわけですが。まあそもそも哲学なにそれ?おしいしいの?みたいなクソ野郎だった僕ですけど、この2000年くらいかけてお勉強を致しました。

ということで今日からパーソンズ含む構造機能主義というところに着額を置く諸科学ということになりますよろしくね!><

簡単に説明するよ。例えば、みんなは社会で生きる上で関数でしかないので、誰でもいいわけです。其のために契約なんか必要ないと思うんですよ。演劇の舞台で役者が居なかったらその演劇がストップしてしまうでしょ?だったらその役を、俺やるよ!っていきなり飛び入りでやってもいいんじゃないかと思うんです。例えば、コンビニで何故かさっきまで行列がなかったのに、長蛇の列がでてきて、うわあ俺フォーク並びとかやだよー、なんか他の店員棚だしとか必死だし、なんか社会人として振る舞わないといけないパターンの小規模なやつきためんどくせえみたいな。ソン時に、その自分が、2番めのレジの役やったら早くないっすか?え?おまえ店員なの?みたいな。いやそもそもコンビニの店員なんて、この地球上いや宇宙探しても存在しねえし、そんなの役(関数)でしかないわけでさ。契約による。

そんな感じっす。

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