抽象化イメージ(物自体の物)は最適化されている?

それでだ、夏は、非常に理念的なもので、決して、Amazonとかヤフオクとかで売ったりすることができないようなものだ。しかしAmazonなどで売っているもの、とかは、物なので、物である時点ですでに最適化されていると思うかもしれない。言っていることがわからないと思うが。

例えば、Kindleカバーは、Kindleをカバーするためのものとして最適化されている。誰もがKindleカバーでKindleをカバーする方法しか選択しないだろう。もしそれ以外の使いみちがあるならば、iPhoneの高さを調節するときの台とかに使うか、フライパンを置くとかに使うかしかない。つまり物は一応、意味と物自体が最適化されて抽象化イメージとして検索できるのじゃ。

しかし、人物はどうだろうか。

人物は、Kindleカバーでもあり、夏でもある。

つまり、人物はKindleカバーのように最適化されていないのだ。だから最適化されたものが、もし仮にAmazonで売った場合、現地で調達した奴隷とか、そういう人身売買な最適化になる。これ以上はつっこまないが。

つまり、最適化されていない人物は、夏のような、ふんわりしたもので、カレンダーの6〜8月くらいで気温が30どくらいのゲシュタルトだという、感じで、そして最適化されたら、物になったりする、すんげえあれだぜ。

例えば、宇多田ヒカル。

宇多田ヒカルは最適化された人物なので、検索するとでてくるだろ。

しかし宇多田ヒカルを構成しているレシピをクックパッドに聞いても、

これとこれじゃね?とかみんなが必死に、四六時中、昼夜問わず、考え抜いても、ぜったい宇多田ヒカルにならないし、倉木麻衣になるかもしれない。過去に1999年に実際にあった話だ。

しかし物自体としての宇多田ヒカルは、人間であるので、夏の通り雨のように有機的に変化する。

そのとき、固定された選択肢は崩壊するし、宇多田ヒカルに対する固定された選択肢は最適化されていて、とりあえず新曲が発表されたら曲を聞く、公式ツイッターをフォローして、クソリプを送る、くらいの固定選択だ。これはもはや最適化されているし、スタッフががんばっているのだ。

つまーり、固定選択前提なのだ。

選択前提は固定されがちだ。

それはつまり、私達の構成力の問題であって、固定された選択前提の外、つまりKindleカバーをKindleをカバーしないで、別の使い道をするヒトのことだ。

それを人物に当てはめると、おじいちゃんの選択前提はKindleをカバーするのに使う、などの形式化もできる。


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