家は現実には無い

つまり家の外延であるが、ヒトが家だと認識している構造物はカマキリからしたら、何になるのか、自然環境なのではないだろうか。我々が自然から意味を生産するに当たって、外延を作り出すが、それが意味と記号になる。家の意味は知らんけど、家自体はシニフィアン記号そのものだ。つまり家という標識には意味があるのだ。例えば、とまれ、という道路標識に意味があるのは読んでわかると思う、しかし家という標識を見て、「家」という意味を感じ取るには、どれくらいの家が必要なのだろうか。

実際には、家なんてものは幻想なのだ。この世界は、無いのだ。

すべてが無いのだ。

空なのだ。無いということは或るということだ。

では、家が或る、ということは、どういうことなのか。脳内のパターンでしかないのか。

家は脳内で抽象化イメージとしてでしか認識されていないのだ。

つまり神は

神は

神は


神は神は

神は神は神は

神は神は神は



神は




神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は



神は神は












神は神は神は神は神は神は神は神は


















神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は

神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は神は










































なのである。

これを踏まえて考えてみよう。家という系、システムの構造内では、人間もシステムの中の一部となってしまう。どんな生命体でも家という意味を理解できる生命体であれば、それは人間であるが、年収が8900万あったとしても、その家のシステムにホメオタシスや動的平衡を保てば、腰痛になる。


つまりこの世界は、

リラックマしかないのだ

はああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ?




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