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「崇拝」はしない。「好き」でありたい

誰かの考え方や生き方を、素敵だなあと感じたとき。それが“憧れ”を通り越して、“崇拝”になってしまうことがある。

特に、SNSで他人の着飾った姿を見る機会が増えた今は、“崇拝”が生まれやすい時代なんだろうな、と思う。いいところを選んで人に見せているのだから、とわかりながらも、他人が必要以上にまぶしく見えてしまうのは、よくあることだ。

20代が始まったころの私はまさにそうで、社会に出たばかりの真新しい頭でいろんな人に感銘を受けては、日々憧れを募らせた。

ある人がAだと言えばAだと思い、Bだと言えばBだと思った。自分の発言に迷ったとき、あの人なら何と言うだろうとよく考えた。

だけど、今振り返って、思う。「私はその人たちのことを、どれだけ知っていたんだろう」


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村上春樹さんが読者からの質問に答える企画『村上さんのところ』で、印象に残っている回答がある。

「彼女の元カレをSNSで見つけてしまい、過去の2人のことが気になって仕方がない。どうすればいいのか」という相談だった。対する回答は、これだった。

彼女のことだけを見て、彼女のことだけを考えるといいと思います。彼女について、君が自分の手で一次情報をせっせと集め、それを積み上げていくんです。それは君だけの持っている彼女についての情報だし、たぶん他の誰も知らない情報です。そういう情報って素晴らしいと思いませんか?そういうのに比べたら、SNSの情報なんてちゃちなものです。(一部抜粋)


この質問をした人の心理が、“崇拝”に似ている気がした。生身の相手以上に信じてしまう対象がある、というところが。それで、“崇拝”というのは、「相手の一次情報を集めようとしない」状態なのかもしれないなと思った。

対して、一次情報を少しずつ集めていくことは、相手を“好き”になる過程なんじゃないかなあ、と思う。

この人はこんなときにこういう言葉を使うんだな。こんなクセがあるんだな。こんなとき悲しくて、こんなときうれしいんだな。

それを積み上げた先にあるのは、“崇拝”じゃなくて、“好き”だ。(“嫌い”かもしれないけど)


一次情報を集めていけばきっと、しょうもない部分にもたくさんぶち当たる。

憧れのあの人だって、誰かを羨んだり妬んだり、自己嫌悪にずぶずぶに苛まれたりする。食べ終わった食器を限界までシンクに溜めていたり、真夏は足がくさかったりする。「あんなこと言わなければよかった」と後悔する夜も、メイクを落とさないで寝てしまう夜も、一人コンビニ弁当を食べる夜だってある。たぶん。きっと。


誰かに過剰な憧れを抱いてしまうのは、その人の一次情報をあんまり持ち合わせていないときじゃないだろうか。頭の中で、膨れあがったイメージばかりが育っている状態。

もちろん、それを楽しむ世界(芸能界とか)もあるから、“崇拝”をまるっと否定はしないけれど。でも、せめて対象が会うことのできる人なら、相手に過剰にきれいなイメージをつくりすぎていないか? を、自分に問うたほうがいいんじゃないかなあ。


“崇拝”じゃなくて、その人の手ざわりを、“好き”でありたいなと思う。手放しで賞賛するんじゃなくて、ときどきは「それは違うと思う」とか言ったうえで、ちゃんと人間として、好きでありたいと思う。

SNSの情報なんて、ちゃちなものです。



あしたもいい日になりますように!