忘れるためじゃなく、覚えておくために手放す

1年と少し前、気に入っていたtokyobikeの自転車を友人に譲った。

グレーがかったブルーのフレームに、細くて白いタイヤ。ペダルは軽くて、こぐとぐんぐんどこまでも進んでいける、かわいい相棒だった。

出産を機に自転車にあまり乗らなくなったこと、引っ越しが決まったこと、そしてちょうど友人が自転車を探していたタイミングが重なり、ぱぱっと話がまとまった。

私の家まではるばるやってきて、そのまま夜の闇を自転車に乗って帰っていく友人の後ろ姿を、今でも覚えている。


今もときどき、「あの自転車は元気かなあ」と考える。

雨が降っている日は、「雨に打たれていないかなあ」と少しだけ心配になる。(買うときにお店のお兄さんに、「雨ざらしは絶対にやめてくださいね!」と釘を刺されたのだ)

その友人にはなかなか会う機会がないし、わざわざLINEで「自転車どう?」なんて聞く話でもないので、自分の中だけでふと思い出し、そしてまた忘れる。

まあ、率直に言うと、未練タラタラなのだ。昔からずっと欲しいと思っていて、お金がそこそこ貯まったのを機にようやく手に入れた自転車だったから。

「じゃあ譲らなければよかったのに」
と思われるかもしれないけれど、私は逆に、あれが手放すベストなタイミングだったなと思っている。

未練が残っている状態で手放したからこそ、今もこうして、忘れずにいられているから。そして、「忘れずにいること」が、そのモノに対する一番の敬意の示し方だと思うからだ。


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「忘れること」の多さに愕然とする。

1週間前にどんなニュースが世間を賑わしたか。3日前のランチで何を食べたか。きのうどんなツイートがバズっていたか。ものごとは全部一瞬で過ぎ去って、記録に残さなければもう二度と思い出すことはない。

情報はびゅんびゅん流れて、“知っては忘れて”を無限に繰り返す。

そのことがときどき、すごく虚しく、寂しくなる。


だからこそ、「忘れずにいること」「ずっと覚えていること」というのは、愛情や敬意を示す最良の方法なのではないか、と思う。

これだけいろんなことを忘れていく時代に、消えずに残り続けているもの。

それだけで、すごくすごく“特別”なんじゃないか。対モノだけじゃなくて、対ヒトであっても、そうなんじゃないか。

もちろん、忘れたほうが幸せなことだってあるから、何もかも覚えている必要はないけれど。でも、大切なモノや人のことは、できる限り「忘れないでいる」努力をしたいなあと、最近思うようになった。

そして、忘れないでいるための方法のひとつが、「未練が残っているうちに手放す」ことだと思うのだ。

まったく未練なく、「100%いらない」という状態で手放すものは、きっとすぐに忘れてしまう。だけど、かさぶたをはがすみたいに、ぴりっと痛みを伴う状態で手放したものは、たぶん細く長く、記憶に残り続ける。

手放すというのは、「忘れる」ためじゃなく、「覚えておく」ための行為だと私は思う。


忘れたくないから、痛みのあるうちに手放す。

それは一見矛盾しているように思えるけれど、ずっと手元に置いておくよりも、私はその行為に愛とリスペクトを感じる。別に、「覚えていますよ」と対外的に表明しなくても、自分の中でじんわりと覚えているだけで、十分だと思う。

だから、大切なものこそ、“手放しどき”をちゃんと見極めたい。いつまでも覚えておきたいことをきれいな形でとっておけるように、ときには痛みを選べる人でありたいなあと思うのだ。


ということを考えながら、これまである理由で捨てられなかったワンピースを手放すことに決めました。ちゃんと思い出せるように日記も書いたので、忘れないでしょう、たぶん。

あしたもいい日になりますように!