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愛しき待ちぼうけ

Amazonでキッチン用のラックを注文したら、配達予定日に3日後の日付が表示された。

3日もかかるのか……と思ってしまった自分に悲しくなる。たかが3日。72時間。キッチンラックがなくたって、死ぬわけじゃないのに。


この季節になると思い出すのは、山下達郎の「クリスマス・イブ」のことだ。夜更け過ぎに雪に変わる雨。永遠に来ないきみ。一人きりのクリスマスイブ。この歌は今やもう、成立しない。

みんながスマホを持っていて、地上10000mの飛行機からでもLINEができる今。待ちぼうけをくらう前に、「ごめん、30分遅れる」を受信できてしまう今。「きみが来ない」時代は終わったのだ。

世の中の「待つ」は、まっくろくろすけみたいに、ザワザワと世界の隅に追いやられて姿を消していった。彼らは終電と始発のあいだの真夜中で、そっと息をひそめて、かろうじて生きている。

私たちは、いつだって最短距離を選べる。乗り換え案内やGoogle Mapが提案するのはいつも最短ルートだし、Amazonのシステムはいつも「お急ぎ便」にチェックを入れる。

レストランだって映画だって、レビューサイトをチェックすれば最短で“おいしい”“おもしろい”にたどりつける。身を呈する失敗を飛び越えて、簡単にベストへの直通ルートが得られる。


「待つ」が消えていって、回り道はどんどんまっすぐに矯正されて、その中で消えていくのはセレンディピティだ。


最近は家にいることが多いので、よくラジオを聴いている。そこで、ふいに好きな曲が流れてきたときのうれしさといったら。つい一緒に歌いたくなってしまうほどだ。

そして、「待つ」が消えた世界では、こういうセレンディピティになかなか出会えないな、と気づく。

好きな曲が聴きたければ、検索窓に曲名を打ち込めば一発なのだけど、そういうことじゃない。回り道の途中でふいに訪れるという偶然性。それは、最短のスパッとした気持ちよさとはまったく別の、数字やお金で測れない幸せだ。

待つからこそ、回り道をするからこそ手に入る何かはきっとある。手に入るものが何なのかは、実際に待ってみないとわからなくて、それは「待つ」を選んだ人だけの特権なのだ。


これは単なる懐古趣味だろうか。
だけど、「写ルンです」の再来が物語るように、私たちは待つことやセレンディピティを自ら排除しているようでいて、実はそれらを渇望しているんじゃないかと思う。


たまには乗り換え案内を使わないで、ゆっくり目的地を目指してみてもいいじゃないか。

1枚のワンピースを買うのに、1ヶ月待ってみてもいいじゃないか。

つまらない映画ばかりにあたってしまって、悔しい思いをしたっていいじゃないか。

恋人と一緒に行ったレストランが最低で、「まずいね」って笑い合うことがあったっていいじゃないか。


「きみが来ないクリスマスイブ」は悲しいけれど、どうせなら待ちぼうけのノスタルジーも、まるっと愛して思い出にしたい。ときどきは世界の隅っこから「待つ」を呼び戻して、回り道をしながら戯れたいと思うのだ。


↑この前見かけて、なんかいいなあと思った。私も最短ルートで行きそうだけど、たのしいルート選びたいよね。

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去年も「クリスマス・イブ」のこと書いてた。どんだけ好きやねん。



あしたもいい日になりますように!