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言語化至上主義がこわい

メールにLINE、SNS、ブログ。これだけテキストベースのコミュニケーションが多くを占める世の中で、「言語化が得意」は間違いなく武器だ。

正しくことばを選んで丁寧に伝えれば、必ず誰かに届く。似たような思いを持つ誰かが共鳴したり、応援したりしてくれる。人の頭の中がのぞけないかぎり、結局は「言わなきゃ伝わらない」のだ。


だけど、それが行きすぎて「思いは言語化すべきである」「ことばにできない=考えていないと同じである」とまで行ってしまうと、ちょっと待てよと思う。

そういう言語化至上主義が、私はとてもこわい。


私は、「あえて言わない」だって、「言う」と同じように決意を伴うものだと思う。「言わない」にも、

・「これを言うことで誰かが傷つく」と判断したので言わなかった
・長い時間考えすぎてまとめられなかった

とか、いろんな事情がある。決して、「言わない=考えていない」だけじゃないはずなのだ。

もちろん、「言える人」だってリスクを背負って思いを形にしているわけだし、「言える人」が代弁してくれることで「言えない人」が救われることだってたくさんある。

でも逆に、「言える人」の陰で涙を呑んだことも、私は何度もある。(突然自分の話になってしまったけれど)
「言える人」の前では、自分の悲しかったことも頑張ったことも苦しかったことも、全部なかったことのように感じてしまって、なんだか縮こまるような気持ちになる。

そんなふうに、ひとりの「言えた人」のうしろには、何百人、何千人の「言えなかった人」がいるんじゃないか、という気がする。


だから「言える人」を目の当たりにしたときは、「言える人」のフォロワーになるよりも、その陰にいるたくさんの「言えない人」の存在に目をこらしたい。

案外、「言えなかった」のさみしさって、そこらじゅうに転がっているんじゃないかと思うのだ。

あしたもいい日になりますように!