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THE END OF EVANGELIONを褒める



「このままじゃ怖いんだ。いつまた僕がいらなくなるのかも知れないんだ。ザワザワするんだ……落ち着かないんだ……声を聞かせてよ!僕の相手をしてよ!僕にかまってよ!!」

劇場版第26話「まごころを、君に」   碇シンジ



Filmarksに投稿したのをはてなブログに投稿したのを更に校正しました。


 TVシリーズの続編であるアニメーション映画という立ち位置に相応しくないほどに、「アニメーションの中から見る現実の視点」という要素を取り込んだ、意欲的でありつつグロテスクな構造の作品である。(褒めています)


 他者との関わりは恐怖と苦痛を伴い、そしてそうした苦しみの中でも時として自分の意味や立ち位置がわからない。 あるいは、自分自身に向き合えないがために他者との繋がりへと踏み出すことが出来ない。 これらのある種「思春期的」な思いに悩み苦しむ少年少女、そして同じような思いを抱えた大人達(そういった意味で、葛城ミサトは碇シンジと並んでシリーズの主人公とされているのだろう)を、「汎用人型決戦兵器」エヴァンゲリオンと未知の存在である使徒との戦いを軸に描き出しているのが同シリーズである。 そして碇シンジとその他の主要登場人物は、そうした戦いの中でも自分自身の価値を、居場所を見出すために、時には逃げ出しつつも立ち向かい、その度に現実によって打ちのめされていく。


「碇君は分かろうとしたの?お父さんの気持ちを。」
「分かろうとした。」
「なぜ分かろうとしないの?」
「分かろうとしたんだよ!」
「そうやって、いやなことから逃げているのね。」
「いいじゃないか!いやなことから逃げ出して、何が悪いんだよ!」

TV版第拾九話「男の戰い」 綾波レイ、碇シンジ


「要らないのよ、私なんて…誰も要らないのよ!…EVAに乗れないパイロットなんて、誰も要らないのよ!…」

TV版第二拾五話「終わる世界」 惣流・アスカ・ラングレー


「認められているのは、認められようと演じている自分で、本当の自分ではないのよ。本当の自分はいつも泣いているくせに。」

TV版第二拾五話「終わる世界」 葛城ミサト


 そうしたシナリオの中から、今作はある一つの結論を提示する。それは「その苦しみの中でも、幸せになれる可能性を探して生き続けること自体が存在理由になるかもしれない」という一つの可能性である。「Air」における葛城ミサトの一連の台詞、そして「まごころを、君に」終盤の碇ユイの台詞にはそうした人生観が如実にあらわれている。


「何甘ったれたこと言ってんのよ!アンタまだ生きてるんでしょ!だったらしっかり生きて、それから死になさい!」

「今の自分が絶対じゃないわ。後で間違いに気づき、後悔する。あたしはその繰り返しだった。ぬか喜びと、自己嫌悪を重ねるだけ。でも、その度に前に進めた気がする」

劇場版第25話「Air」   葛城ミサト


「心配ないわよ。全ての生命には、復元しようとする力があるの。生きていこうとする心があるの。生きていこうとさえ思えば、どこだって天国になるわ。だって生きているんですもの。幸せになるチャンスは、どこにでもあるわ……」

劇場版第26話「まごころを、君に」   碇ユイ


 このように「上手くいかないだろう。きっと傷つくだろう、しかしそのまま凝り固まっていてもどうにもならないから、どうにか1歩を踏み出そう」という、「鬱屈とした状況であるからこそ見いだせる、一筋の希望」が旧劇場版の、そしてエヴァンゲリオンの真意であると考える。それがゆえの「ココにいても、いいの?」であり「I NEED YOU.」であり「気持ち悪い」なのだ。


 また、未だに語り草になっているという「実写パート」。これは「エヴァ」を過度に祀りあげる当時のアニメオタク達に対して、制作陣が冷や水をかけるという言うなれば「逆張り」であるという見方が定説であるが、私は寧ろこの21世紀にこれらのシーンを目の当たりにし、視聴者に本気でぶつかってくるような力強い問いかけがなされているのではないかと感じた。
「夢は現実の続き、現実は夢の終わり」であると綾波レイは語る。それは即ち、虚構世界に浸る我々も、現実でもがく我々も結局のところは地続きであるということ。ゆえに我々は、1度は現実の苦痛から逃れ、L.C.Lの海に溶けこんだ碇シンジがそうしたように「最終的には自分に、外界に向き合わなければならない」。
そのメッセージは、フィクションに依存すること、そしてフィクションから何かを学び取ることを肯定も否定もしていない。ただただ「生きている以上、自分に向き合わないわけにはいかない」という事実を、淡々と告げているのみである。であるからこそ、「スクリーンに映された自分たちを鑑みて、どう感じるのか」という問いが、「気持ち、いいの?」という淡白な言葉を介して真っ向から投げかけられているのだ。


 結末のもつ意味合いに関しては上記でも軽く触れたが、碇シンジの(つまり、我々自身の)が見せる現実への姿勢と関連付けて再度述べておく。 フィクション作品においては、トラウマを1度克服した主人公が一転して明るい性格になったりといった描写が散見されるが、実際はそう簡単にいくものではないだろう。人間の人格とは、様々な過去の体験やその都度の学び、感情によって形成されている。(事実、碇シンジの「内罰的」で「内向的」な性格は、両親からの愛情を十分に受けられず、自身の価値に懐疑的であった幼少期に拠る)
つまり、一度前向きな思考ができたからといって、その後の人生の瞬間すべてを前向きな姿勢で生きられるはずがない。 何度も苦しみを反芻した上で、それでもその中からどうにか希望を見出そうとする。それこそが現実的な、問題の解決に向けた姿勢である。(こうした「過ちを繰り返し、絶望を味わいながらも少しづつ前進する」といった人生観は、前述した葛城ミサトの最期の言葉や「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の制作にあたっての所信表明などにも見られ、作品全体のテーマのひとつであるといえる)

だからこそ、1度は他人を、他人がいる現実を受け入れ、その中で自分を保って生きていくことを決断したはずの碇シンジは再び他者に怯え、否定し、そしてアスカ・ラングレーはその様を「まるで理解出来ない」「心底失望した」といったように冷たく見おろす。

 このシーンから前述したような「現実的観点」(すなわちメタ的なメッセージ)を見出すとするならば、「現実に帰れ、だが現実は辛いものだということを忘れるな」といったところだろうか。「エヴァンゲリオン」を碇シンジの成長物語と位置づけるならば、碇シンジが他者が蔓延る世界の中でなんとか自分の価値を確立したことで「ハッピーエンド」としてもよかったはずである。(過程をかなり端折っているものの、その様子を描いたエンディングがTV版であるともいえる) だが今作は、敢えて最後にグロテスクな遺恨を、「呪い」を残した。そして「終劇」という簡潔な勧告とともに物語の幕は下ろされ、後のすべてのことは現実に生きる我々に委ねられる。
ディスコミュニケーションが根底にある一連のシナリオ、そして終局の情景が映し出す相互不理解は「他者と分かり合う難しさ、そして辛さ」そのものであるが、そうしたものに喘ぎながらも何とか自らの身体を、そしてA.Tフィールドを保って生きている我々の映し鏡といえるであろう。

「だけど、それは見せかけなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ。いつかは裏切られるんだ。僕を……見捨てるんだ」

「でも……僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから」

劇場版第26話「まごころを、君に」   碇シンジ


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