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The Elder Scrolls V: Skyrimを褒め、人生をロールプレイングに喩える

ムーティ松本


(ネタバレあり、10年前のゲームに対して今更すぎるが)

記念すべきゲーム開始画面、この直後フレームレートがバグって進行しなくなった



先日、おれは10年間擦られているぐらいオモローなゲームとしてお馴染みの「The Elder Scrolls V:Skyrim」をクリアした。現在のプレイ時間は約90時間。

クリアしたとは言えども完遂した派閥クエストは同胞団とかいうオラオラ系(導き手辞退してェ…)のみで、400近くあるクエストのうち100も消化していないだろう。それぐらいのボリュームとそれに伴う自由度があるゲームであった。

実はこのゲーム、おれはPS4版を1度プレイしそして積んでいる。ベセスダが製作したFalloutシリーズをすべてプレイし、その没入感と世界観と自由度の中毒になっていた2017年当時のおれは、その時丁度セールで安くなっていたps4版に手を出し、しかし最初の金の爪のクエストをクリアしたあたりで積んでしまっていた。


ストーリーの導入部となるメインクエストの序盤、当時この直後に積んだ

なぜ当時のおれはこのくそおもしろゲーを積んでしまい、そしてその5年後であるところの現在のおれはなぜ楽しくプレイ出来たのか。それを考えた時に思い当たった理由がこれだ。「ゲームが提供する自由度に乗り切れたか否か」

ロールプレイングとは何ぞや


自キャラ、元盗賊の弓使い(という設定)

TES・Falloutシリーズの既プレイヤーならご存知かと思われるが、このシリーズが重点を置いている要素は「ロールプレイング」だ。プレイヤーキャラは勝手のわからぬ世界に放り出され、そこに生きる人々と関わったり関わらなかったり、殺したり殺されたりしながら世界に順応していく。その「架空の社会の一員になる」、ひいては「なんらかの役割を演じる」という要素が古今東西のRPGプレイヤーを引き付けているのだ。

ゲーム開始から40分後の意味不明すぎる会話、今なら意味がわかる


そしてその「架空の社会の一員になる」という点において、Skyrimは(現在のベセスダ・ゲームスタジオの最新作であるところの)Fallout4よりも敷居が高いと感じた。


考えてみれば当然のことである。両作の世界観は似通ってはいるものの、やはり世紀末の混沌により実質的な無政府状態となっているFalloutシリーズと違い、Skyrimの世界では文明社会が数百年にわたり存続している。ファンタジーな世界観でありながらも、我々と同じように「明日も平凡な一日であってほしい」と願う小市民が大半である世界。そういった「歴史を刻んできた文明社会」に余所者が入り込めば輪に入っていけないのは当然のことだ。おれと同じようなオタク君はこの「予め出来上がったコミュニティに入り込むことの難しさ」を現実世界で何度も味わってきたことだろう。


しかしSkyrimは現実ではなくゲームだ。右も左もわからぬプレイヤーキャラ、そしてプレイヤーに対して、この世界は時に親切に、時に大雑把に、「この場所では、何が、どうあるべきか」を教えてくる。

ゲームが仕掛けてくる「ストーリーテリング」


そう、ゲームだからこそだ。ゲームだからこそ、プレイヤーはどこにでも行き、どんな敵にも挑みかかることが出来る。どんな人とも話し、どんな事情も理解することが出来る。(勿論そこには、Skyrimの世界が応える限り、という注釈が必要になってくるが)

そしてゲームだからこそ、プレイヤーと、プレイヤーキャラである「ドヴァーキン」は、お互い何も知らぬ者同士であったゲーム開始直後から、歩を合わせて進み続けることが出来る。そこには、一般的な映画や漫画などに大して使われる感情移入や一体感といった言葉とはまた違う、没入感と表現すべき感情がある。これはゲームの世界を本気で信じることで生まれるある種の錯覚であり、ドはまりの「ゾーン」であると個人的に思う。こう書くと完全にヤバい奴だが、つまりそれぐらいの力を持つフィクションが世にあり、それを信じて生きる者もいますよ~、というぐらいの意味ですね、ええ。(怖いよぉ…)

プレイ開始直後、大雨の中家を買う金もなく公園にへたり込むドヴァーキン

(個人的に、RPGのプレイングに関しては「自分がこの世界にいたら」ではなく「自分が考えたこういう主人公がこの世界でどう振る舞うか」という観点を持っている。この観点においてFallout・TESシリーズはまさにうってつけなのだ。閑話休題)


冒頭の話に戻るが、PS4版をプレイした当時のおれはその境地に至ることが出来なかった。「1週目はどうプレイすべきか、ネットでオーソドックスなプレイと見た片手剣プレイでいくべきか」「最初はどのクエストラインを消化していくべきか」…
Falloutシリーズを通ってきている筈の当時のおれでさえ、この世界の圧倒的物量に押しつぶされてしまったということだ。方々で名作と担ぎ上げられているこのゲームだが、やはり相当に人を選ぶということは間違いないと感じた。ゲームの世界に本気になれる奇異な人間、社会的に見たら哀れかもしれない人間。そういうヤツにこそ、本気で世界をその世界を信じることが出来る、こういった高密度でハイカロリーなゲームが時には必要なのだ。だって人生は悩ましいから…


やっぱりRPGが大好きなんだよな



この世界の人々も各々が理由を見つけ、生に従事している

世界に生まれ、世界を知り、そして世界は選択を強いる。そう、つまりロールプレイングとは人生そのもののシミュレーターと言っても過言ではない。(過言かもしれない。)そしてそんな「架空の世界」に没頭することが大好きなおれ達オタクだって、ゲームの中で幾度となく迫られてきた「選択」を日常の中で為しているのだ。こうして残り少ない大学生としての夜をキーボードカチャカチャタイムに費やすことだって俺の選択であり、おれがドヴァーキンにさせてきた、「あの世界においてどう振る舞うか」という選択と大して違いはないのかもしれない。(あるのかもしれない。)


「この世界が好きだ。滅びてほしくない」

クリエイター側も、プレイヤーにその「自由度」を、「真実味のある世界」を与える意味を重々承知しているのだろう。ゲームの山場になる場面で、何故世界を救おうとするのかと問いかけられた主人公・ドヴァーキンの台詞として「用意されている」のが上記のものだ。この世界に放り出され、この世界を学び、この世界で戦うのはこの世界が好きだからだ。そうでなければ、こんなややっこしいゲームをここまでプレイする筈がない。完敗としか言いようがないビデオゲームならではの構造であった。


「未来は目の前に広がっている」

そして戦いを終えた後、メインストーリーにおいて多大なる貢献を見せてくれるジジイことアーンゲールが投げかけてくる台詞もまた示唆的だ。ここまでSkyrimの世界を歩んできたプレイヤーだからこそ、どんな世界も、未来も無限の可能性があるということを理解することが出来る。オタクは常人なら子供の頃から理解出来ているようなことを、フィクションを通して教えられることがままあるんだよな。ともかく、何者にも代えがたいプレイ体験であった。

盗賊生活サイコー

おれも「金持ちになって長生きし、人生を楽しめる」ようにこの世界を生きていこうと思います。

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ムーティ松本
文学的人間になりたさがややある雑魚オタクです! 映画→ https://filmarks.com/users/beatendowngeek