非モテには苦しむ事も許されない

「非モテは辛い!」と言うと、インターネットでは何処からともなく親フェミニズム的な人間達が1ダース単位でやってきて「貴方の辛さはホモソーシャル/コンプレックス/支配欲によって作られた思い込みだ!非モテが辛いという価値観を捨てろ!」と説教して去っていく。

このような言説自体に言いたい事は色々あるが、これは正しいか否かは別として、このような言説が支配的になる今のインターネットにおいて非モテには苦しむ事すら許されないのを示している。

非モテは苦しむだけで「解脱せよ!」と説かれ、同情の言葉すら与えられず、ただ内省と自力救済を強制されるのだ。

換言すれば非モテには苦しむ自由すらない。

日本国は憲法第19条で「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」として、国家による内心の強制を禁止しているが、今現在非モテが奪われようとしているのは正に内心の自由に他ならないだろう。

内心の自由とは「それが犯罪として表に出ない限り、何を感じて何を思っても自由である」という近代の基本的人権概念とされているが、少なくとも今の非モテにそれが保障されているか?というと何とも微妙なところだ。

例えば、分かりやすいのは萌え絵騒動である。

非モテやオタクが法や条例に反しない程度にセクシャルな萌え絵を出す/好む事に対して、「エロい事が問題なのではないよ。でもこんなのを好むのは女性をモノとして見てる証だ」「エロい事が問題なのではないよ。女性に対する贖罪意識が足りない」と正しいか否かは別として、その内心を裁かれて「そのような内心を改めれば自ずとこのような事にはならないはずだ!」と行為それだけでなく内心の変革をも迫られる。

繰り返すが非モテは人間ではない為「それが犯罪として表に出ない限り、何を感じて何を思っても自由である」という近代人権の原則は適用されない存在なのだ。

勿論、非モテの嘆きがある人間にとっては攻撃的/侮辱的に感じてしまうし、またそれによって傷ついてしまう人間がいるのことも事実だろう。

また非モテ男性の嘆きは「自身には性的価値が無い」が根幹になってるものが大半であり、それは必然的に生まれながらに子宮という性的価値を持つ女性への嫉妬として現れるし、それは「男女間の対立を煽ってる」と解釈する事も「女性の困難を無視してる」と解釈する事も可能だ。

しかしながら、苦しみとは謂わば現状に対する異議申し立てや不服であり、極端な話、苦しみの吐露はそれ自体が現状に対する攻撃性を有している。

例えば「美人で辛い!」と美人が嘆く事は、不細工で苦しんでる人間にとっては「じゃあ不細工になってみろや!」と××な気持ちになるし、不細工が「美人はいいな!」と嘆く事は美人にとっては「こっちの苦しみも知らないで!」という気持ちになるだろう。

これは美人と不細工を金持ちと貧乏人、無職と有職者、労働者と資本家…等に置き換えても同様だ。

このように苦しみの吐露は、その苦しみと相反する他者にとって時に攻撃や侮辱として機能する。

https://twitter.com/chinoboshka/status/1311185204023709696

念の為に断っておくと、これは「それぞれの地獄がある」といったどっちもどっち論な話ではない。

「弱者が弱者と認められ、苦しみの吐露を許されるようになるには強者にならなければならない」というパラドックスの話である。

結論から言えば「私は苦しい!」と声をあげられること自体が「恵まれている」証であり、苦しみを聞き入れて貰うほどの魅力や権力といった「強者性を持つ」証でもある。

もっとハッキリ言えば、弱者男性の「女性はいいな!」という苦しみの吐露に対し、弱者女性が「違うぞ!私は苦しい!私に対する攻撃や侮辱はやめろ!」と言っているのが今のインターネットで見られる光景だ。

また、繰り返すがこの話は「どっちもどっち、それぞれの苦しさを思い遣りましょう!」とは決してならない。

何故なら、苦しみの吐露は少なからず相反する属性への攻撃として機能してしまう以外に「人間の同情や関心は有限のリソースである」という制限があるからだ。

どちらが正しいか否かは別にして、弱者男性の苦しみを認めれば相対的に弱者女性は苦しくない/恵まれてる事になってしまうし、弱者女性の苦しみを認めれば相対的に弱者男性は苦しくない/恵まれてる事になってしまう。

そして苦しくない/恵まれてると判断された側に対する同情や関心は薄まり、より苦しく/恵まれてないとする方にその分の同情や関心が寄せられる事となるだろう。

両者には互いに互いを思い遣るインセンティブがないばかりか、明確な不利益すらあるのだ。

そこで出てくるのが、相手に寄り添ってるポーズをとりつつ、相手を切り捨てられる「貴方が××で辛いと思うのは貴方自身の問題である」と説く苦しみの無効化だ。

また属性に由来する苦しみを否定する為に「××でも幸福/不幸な人間はいるんだぞ!」という属人性の強調もよく使われる。

いずれも当人に苦しむ事を許さず、当人の苦しみを全て当人自身の問題に還元する抑圧だ。(個人的な見解を述べると、こうした論は「確かにそういった面もあるだろうが、そればかりを強調して程度や割合といった概念を無視してゼロかイチか問題に持ち込む詭弁」であると思う)

このような流れは今後も続き、そして間違いなく両者ともに納得する形での決着を見ることはないだろう。

今や内心の自由、そして苦しむ事は特権と化したのである。

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