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クトディガリヌの告解 #2

  目次

 さしたる疑問も抱かず、農民達は歩みを再開した。彼らは狂わしき孤独の神気を日常にて浴び続け、理知的な思考をし難くなっていた。複眼の神の奴隷達は、ただ己の主に奉仕し続ける。そこに明晰さは不要。
 突如、発狂せし赤子の断末魔が薄闇を切り裂いたかと思えた瞬間、道ゆく力なき者の上半身が爆ぜて赤い霧と化した。引き延ばされ千切られた血肉が路に叩き付けられる。肩から上を一瞬にして失った男は当然の理として絶命し、崩れ落ちた。残されたる下半身の破砕面は、渦に巻き込まれる形で骨肉がささくれ立ち、脊髄は引きずり出されて捩じれている。それはあたかも、横向きのごく小さな竜巻が彼の体を掘削しながら通り過ぎて行ったかのようであった。
 人々は不安げにざわめいた。ざわめくだけで悲鳴の嵐にはならぬ。孤独の神の呪わしさ。
 赤子の苦しげな絶叫のごとき異音が幾重にも鳴り響いた。直後、足を止めて困惑する愚衆の肉体が、次々と弾けて飛び散る。ウヴァ・ラキアの倦んだ空気が赫く染まった。その場に大勢居た人間は、急速に、ことごとく、肉塊へと転じていった。死体にすらなれぬ。いまだ生き残る幼さの残る少年は、父親が原型を失った悲嘆もそこそこに、祈りを捧げた。自らの神に祈りを捧げた。身を隠す事も忘れて。
 大いなる《七つ眼の老いたる蠍》へと救いを乞うて。
 そして、見た。
 耳障りな金切り声と濃い血煙が乱舞する中で、石の路を深く砕いて突き立つ一本の冷たい鉄を。
 それは細かく裂かれた臓物や骨肉を纏っていた。それは歪に捩じくれ曲がっていた。それは鋼の柄に鋼の旋条が施されていた。それは、異形の矢であった。全長は少年の体よりなお長大。造り手の禍々しい意思を想起せずにはいられない、常軌を逸した槍のごとき威容であった。少年は、これなる異常な矢が遠方より飛来して周囲の惨劇を引き起こしている事に薄らと気付きかけていた。渦を巻くその奇妙な形は、飛翔の際に風を受けて回転を得、標的の肉を掘削するための仕組みのようである。が、一体どのような射手が、この持ち上げるのにも苦心しそうな矢を、しかもここから見えないほどの遥か遠くより射かけられるというのだろうか。矢が人体を破壊するに足る回転速度を獲得するにはどれほどの弓勢が必要なのだろうか。
 少年の溶けかかった頭脳がこの回答を得る事はなかった。
 鋼の暴風が、理不尽な迅さで少年の胸腔を喰い破り、壮絶なる遠心力がやせ細った手足をでたらめな方向に弾き飛ばした。

 都市に四つある出入り口はすべて灰装束の武装した集団によって塞がれていた。外敵を遮断する半球外殻が、孤独の神の信徒達から逃げ場を奪い取ったのだ。《七つ眼の老いたる蠍オオンァト》の領地ウヴァ・ラキアは、その夜、滅びた。

 ドログ・ラキアは採掘場ドログである。
 ドログ・ラキアは寺院マシホスである。
 ドログ・ラキアは聖地ファロである。
 ドログ・ラキアは神に至る門デュトナ・リィ・オオンァトである。

 坑道は、世界の多くの場所と同じく闇に閉ざされている。松明によって追い散らされる度に、無数の黒い長蟲が折り重なっているかのような濃淡が現れるのは、はたして気のせいなのであろうか。
 木枠にて形を定められている洞穴の中を、灰色の長衣に身を包んだ集団が整然と前進していた。揺れる袖からわずかに見え隠れする上腕部には、二振りの剣に刺し貫かれた眼球を抽象的な筆致にて描いた刺青が施されていた。全員があつらえたかのように曲刀を佩き、長弓を背負っている。いずれも鏡海の鋼水を溶けた鉄と混ぜて鍛えた聖性灼かな武具であった。ゆるやかな長衣は頭の上半分をも覆い、その顔も表情も見て取ることはできぬ。人数は五十を少し超えるほど。
 絶対観測者アザロトレの徒。狂猛なる神の僕達。大陸において最も強大で獰猛な勢威を誇る大教団、《黄昏にて天を見上げる識者の会》の尖兵。神への愛に身を焦がし、異神を殲滅せんと蠢動する、狭窄した視野の軍勢。球殻都市に潜入し、球殻都市を封鎖し、球殻都市を襲撃し、球殻都市を鏖殺した三百余名の戦鬼ども。
 精鋭たる五十余名が、ウヴァ・ラキアの真下に位置する蠍神の御殿を侵し征く。
 抵抗らしい抵抗にも遭わずに侵し征く。
 隊伍を組んで、整然と、僅かな乱れもなく。
 狂いなき進軍の足音の中に、一つだけ異質な音が混じる。ひたり、ひたりと軟質の、子供が裸足で歩いているかのような音。無論、殺意に身を焦がす死軍の中に、かような幼子が混じるはずもない。
 それは足音ではなかった。
 その者が歩行する際に発生する音ではあったが、しかし足音ではなかった。ひたり、ひたりと滑らかに、その者は歩みを進める。隊列の央にて、堂々と。
 彼の容貌を見て、一目で人間だと見抜ける者は少ない。大まかな輪郭からしてすでに人類を逸脱していた。いかなる怪異に身を襲われたのか、彼の体には下半身が存在していなかった。肋骨の歪曲した下辺から下にあるべき下腹や両足が、そこにはなかった。がらんどうであった。盛り上がった肩から伸びる奇形じみて長大な両腕が床を踏みしめ、小さな上半身を前に運んでいる。その異形は、遠目にはアンバアンの沙漠を馳せる汚猥な逆関節二足歩行生物にも見えるであろう。断絶した胴体の断面はくすんだ灰白色の肉に覆い尽くされ、皮膚との境界線上で盛り上がっている。そして――
 その覆肉の中央部、皮膚を纏って下方に競り出ている肋骨に抱かれるように、桃色の綿のようなものがわだかまっている。否、蠢いている。原形質の粘液が糸を引き、松明の明かりを反射した。
 腸、であった。本来、腹の中に押し込まれているはずの消化器官が外部に露出している。それ自体が一個の生物であるかのごとく、存在しない腹腔の中で絶えず身じろき、微かに湿った音を立てていた。
 その姿は、骨肉を纏った狂気。
 盲目の魔狩人クトディガリヌ。《夕闇にて見下す者アザロトレ》の越境者。全を見抜く神性の使徒には不似合いな事に、かの眼窩には暗く陰った空洞があるだけであった。無論、彼にとっては何ら問題とはならぬ事柄なのだが。
「前方の広間、敵」
 クトディガリヌは渇いた呟きを漏らした。
「数はいかがか」
 傍らに侍る灰装束の信徒が聞く。
「四十七。内三名は越境者なり」
 前侵を続ける狂信者の間に、僅かな緊張が奔る。
「憂うな。かような辺境の小神ごとき、我の敵対者足り得ぬ。お前達は蠍にたかる小虫どもを誅戮せよ」
 静かな、しかし強壮な力が滲み出たかのような声が、信徒達の微かな動揺すらも完全に沈めた。
 進軍はいささかも揺らぐことなく再開される。
 やがて、前方に幽玄なる灯が見え始めた。膚を侵食して、何か取り返しのつかない陵辱を肉に刻んでゆくような妄想を抱かせる、粘着質の光であった。
 孤独の神《七つ眼の老いたる蠍オォンアト》の、狂わしき神気に他ならなかった。クトディガリヌの感覚は、この先に多数の異教徒が犇いてていることをすでに悟っていた。
「征くぞ、至高神アザロトレの子らよ」
「応」
 五十余のいらえが、低くはっきりと唱和した。
 鬨の声が上がり、五十余名の聖戦士は床を蹴った。殺到した。
 クトディガリヌは凄絶な笑みを歪ませながら両腕を大きく撓ませ、一気に灯りのただなかへ踊り込んだ。
 光がその全身を包み込んだ。

【続く】

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