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夏日陰の巣立ち #3

  目次

 しばらくしてから、居間にもうひとりの人物が入ってきた。
 大きな瞳を不安そうに揺らしながら、おどおどと。
「あ、あの、今、家の前で、タグっちが……」
 セラキトハート。
 ――いや、もはや鋼原射美と呼ぶべきか。
 彼女のおかげで、この家は明るさを失わなかったものだが。
 そう懐かしむ自分の気の早さに、ヴェステルダークは肩をすくめた。
「ほう、会ったのか。それで、襲われれもしたのかもな?」
 ぶんぶんと、射美は大げさに首を振り、困惑まじりの笑みを浮かべた。
「な、なんか、落ち着いてたっていうか……ブッキラボーだけど、優しかったでごわす」
 ――そうか、そういう見方もあるのか。
 少女の牧歌的な感性に、多少の驚きを覚えた。
「『ひどいことを言った』って。それから、『すまなかった』って……」
 思い出して照れたのか、両頬を手で押さえてくねくねした。
「ひさびさにナデナデされたでごわす~♪」
 頭が血に濡れているのはそのせいか。
 思わず、苦笑が漏れた。
 青年を相手にしていた時とは対照的に、どうにも毒気を抜かれる。
「それに、なんかネコ耳がなくなってたでごわす」
「……あぁ、耳ならそこにあるのかもな」
 ヴェステルダークがちゃぶ台の上を指し示すと、「ぎにゃあああ!」射美はそこから後じさって尻餅をついた。
「ち、ち、ちぎ、ちぎった……!?」
「そのようなのかもな」
 ヴェステルダークは、血まみれのネコ耳を見つめた。
「……不意に、干し肉が食いたくなる時がある。ちょうど今のように」
「いやいやいやいやいや! イキナリ何を言っちゃってるでごわすか! せめてぼかして! 『かもな』を付けて!」
 ヴェステルダークは低く笑った。
 そして眼を細める。
「それで……貴様も私に用があるのではないのかもな?」
 答えの分かっている問いを、発した。
「あ……ぅ」
 一瞬、射美は息をのみ、やがて観念したように息を吐いた。
 ちゃぶ台ごしに、射美は座り込んだ。
「その……」
 何かを言いかけて、射美は口をつぐむ。その眼は下を向き、怯え、揺れていた。
 ヴェステルダークは、声をかけて続きを促すようなことはしなかった。
「大事な人たちが……この町にいるでごわす」
 相槌すら打たず、ヴェステルダークは目を細めてじっと射美を見る。
「射美は……その人たちが、大好きでごわす」
 彼女は下を向いたまま、肩を細かく震わせた。
「だから……その、射美は……だから……」
 さっ、と顔を上げ、正面からヴェステルダークの視線を押し返しにかかる。
「こ、この町を、ま、ま、ま守るつもりでごわす!!」
 額に汗を浮かべ、どもりながら、ヴェステルダークの眼光に抵抗する。
「……つまり、《絶楔計画》を阻止するつもりである、と?」
「は、はい!」
「要するに、裏切る、と?」
「は、はぃぃ……」
 ヴェステルダークは、軽く吐息をつくと、わずかに眼を見開いた。
 その身に横溢する、あまりにも強大な〈BUS〉を、ほんの少しだけ視線に込めた。
「ひっ……ぐ……っ!」
 反応は劇的だった。射美は全身を硬直させ、呼吸困難に陥ったかのように口をパクパクと開閉させ、眼にはありありと恐怖の色を宿した。
「今この瞬間にでも貴様を消し炭に変えることができるが、それでも撤回する気はないのかもな?」
 青年にかけたのとまったく同じ言葉をかける。
 射美はカチカチと歯を鳴らし、眼尻に涙をためていた。
 しかし――視線が、ヴェステルダークから逸らされることはなかった。
「な、な、ないでごわすぅ~!」
 涙は決壊し、滂沱と流れ落ちる。彼女はわかっているのだ。自分が死地にあるということを。どうやっても逃れることはできないのだと。
 だが――視線は。
 涙に曇っているはずの、その視線は。
「――逸らさないな。一瞬たりとも」
 ヴェステルダークは微笑を浮かべ、根負けしたようにあさっての方向に眼をやった。
「あ……」
 唐突に解けた呪縛に、射美は放心したような声を上げる。
「行け。行きて愛せ。貴様が守りたいと思うすべてのものを」
 視線を戻さぬまま、投げ付けるように、ヴェステルダークは言った。
「う……あ……はいっ!」
 その声は、恐怖によるものとはまったく別種の涙で揺らいでいた。
 彼女が立ち上がる音がする。
「あのっ! ありがとうごわしますっ! それから、今までありがとうごわした! 次会うとき、射美は敵でごわすっ!」
 ヴェステルダークは答えない。射美の方を向きもしない。
「その、ま、まっ、負けません!」
 脱兎のごとく、走り去る足音。
 遠ざかってゆく、足音。
 ヴェステルダークは、穏やかに目を細めた。

 ●

「――かくして、二人の裏切り者が、《王》のもとを去っていった」
「ディルギスダーク……いたのかもな」
「――ヴェステルダークはそう虚空に向けて呟くと、なにやら似合いもしない温かな笑みをあわてて消した」
「余計なお世話なのかもな」
「――だが、ヴェステルダークのこの寛恕は、彼ら二人の若者に、不幸な未来しかもたらさないであろうことは確実だった」
「……ふん」
「――タグトゥマダークは、怪物となった。もはや彼は腹の底で燃え盛る絶望を糧に、温もりも救いもない修羅道を歩むことだろう」
「だろうな」
「――セラキトハートは、明確に《王》の敵対者となった。この時点で彼女の死は決定づけられたのだ。もはや早いか遅いかの違いを除いて、彼女の余生に意味はないだろう」
「それでもな、ディルギスダーク。彼らが自らの意志を貫いて、自らの立場に否やを唱えたことが、私はなぜか、嬉しいのかもな……」
「――ヴェステルダークはそう言うと、遠くを見るような眼差しで、二人が去っていった方向を眺めた」
「本当に……どの子も知らぬ間に大きくなる」
「――彼はおもむろに立ち上がった。その眼には、もはや冷徹な《王》としての威厳以外、何も見出すことはできなくなっていた」
「そして、古い目的にしがみつく古い人間ばかりが、この借家に残ったというわけなのかもな」
「――酷薄に、鋭利な笑みを刻む」
「《楔》の位置については、見当がついたのかもな。《絶楔計画》を第四段階にシフトする――『俺たちの戦いはこれからだ! 第三部・完!』というやつかもな!」
「――そうして、《王》は歩み出した。巨大な時計のごとき歩みだった」

「彼らのゆく手に、断想パンセの導きがあらんことを」

【第三部 完】

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