先日、ベランダで、ぼけー、ってひなたぼっこしてたら、とつぜん、
あ、いま不可逆のライン越えたな……
って。
脳みそさんがひとりごとを。
どうも、これでもう冬に逆戻りすることはなくなった、ってことらしいです。
翌日は雨だったのですが、
やっぱり春や……雨の音も春やし。
って、やっぱりとつぜん。
で、脳みそさんがそーゆーので、こっちも春の雨と冬の雨とどーちがうんか考えてみたんですけど、なるほど、しとしととやわらかで、糸をひきながらふってくるような音で、冬の雨の硬い、体の芯からしび凍ってくるような音とはちがう、耳から感じる温度感もぜんぜんあたたかいんですよね。
さらに翌日、たしかに日差しがまろやかで、冬のうららかで澄みきった、キン、という音の聞こえてきそうな日差しとははっきりちがう。
で、きのう。
しゃがが群がっているやや日陰の斜面があるんですが、そのなかでもいちばん日が当たるところの株だけが一輪、花咲いていました。
うーん……不可逆のラインを越えたとは、つまり、この事か、とやっとなっとくいきました。
・◇・◇・◇・
ふしぎなのが、脳みそはどんな風に「春」を定義していて、どんな風に環境を観測して、「もう冬にはもどらんな」と判断できたかです。
さらにふしぎなのが、「春がきた」「冬がおわった」という一般的な文句ではなく、
もう冬には戻らない → てことは、これから先は春しかない
という表現のしかたで意識の表層に春の到来を知らせてきたことです。
植物は、一定の気温や日照時間の積算で、芽吹いたり花開いたりしはじめますが、人間もなんかそんなセンサー的なものがあるんとちゃうんかなー、とかんがえています。すくなくとも、気温や湿度、日照時間や日差しの強さ、といった年間通しての環境の変遷は、データベースとして脳内に蓄積されていると確信しています。
だとしても、人体にとって「春」とはなにで、身体にはどんな春的な変化が生じているのか謎なんですが。
それと、「身体」という自然現象にとっての春と、短歌やなんかに歌われてきたような、人間が勝手に定義を決めてきた「ことば」としての春、って、脳みそのなかではどう兼ね合わされているのかな、とか、やっぱり謎。
もしかしたら、脳みそさん的には、
コノクライノ気温トカ日差シにナッテキタラ「春」トカイウ言葉ヲ言ッタリ聞イタリスルコトガ多クナルヨナ。
エイ。
という感じで、「自分」という意識の表層に「春」ということばをのぼせているだけなのかもしれないし。
まあ、すくなくとも、
春とは……
芽を出すとか花が咲くとかが、
我慢せずに自由にやれるいい季節
って定義しているのは間違いないと思います。
気のはやいしゃがを見て、不可逆の意味がわかった、というのはつまり、
もう二度とは寒くはならんし、お日様がかげることもないから、今日からは自由に芽吹きなはれ~、咲きなはれ~(*´∇`)
それが春、ってことなんでしょうね。
あ、でもねー、そう定義すると、どうして「プラハの春」や「アラブの春」は「春」なのか、ということは、一点の曇り無く腹落ちするよねー。
なんだかんだで、結果的につづき↓を書いた。
いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。