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きゅうにあたまのなかがしろくなる

 ねんまつからうまく文章がかけません。
 このあいだも、あたまのなかでめちゃくちゃスペクタクルなすごい考えが完結したのに、「よしこれなら書けそうだぞ!」って、noteあけて、タイトルつけて、しゃしんもつけて、「書くぞ!」ってした瞬間、あたまのなかの考えがぜんぶとんでまっしろになりました。

 え、マジかよ……!

 まっしろというのはですね、比喩とかではなくてですね、めいっぱいかいたnoteの下書きがですね、ほんのいっしゅんのうっかりのせいでまっしろくなるという事件がときどきおこるじゃないですか。あの瞬間のデジタルデバイスの画面のように、ほんとうに文字も色もとんであたまのなかに白いっしょくしか見えなくなるんですよ。

 そのスペクタクルな考えというのは、いまでもちゃんと、

みなさん比喩ってどっからでてきますか?

わたしはあたまのなかに絵が出てきてそれを移してるだけです。

オグドンという英国のピアニストがいるじゃないですか。

あのしと、「ピアノを喰らうクトゥルー神」ですよね。

だってそんな絵が見えるんだもん。

音楽もある意味比喩ですよね。
「星のキラキラ=鉄琴の音」とか

「きらきら星変奏曲」も、メロディで星を比喩してますよね。

ニールセンもね、メロディから絵が見えるひとなんですよ。

だからあの音楽は比喩なんですよ。
(リヒャルト・シュトラウスは比喩じゃなくて描写だけど)

ハマスホイも、家具とかおうちがひとのかおにみえたりするんですよ。で、それを絵に描いてるだけなんですよ。たぶん。

あれも比喩だとおもうんですよね……。

だからどうも「絵じゃないところに絵がみえていろいろおしえてくれる」っていうとくしゅのうりょくがあるやつが人間にはいるっぽいんですよ。

……………まだまだつづく……………

わかるやつしかわからないないようでごめんよ。
てか、わかるやつってわたししかおらんわ。

 みたいな感じでちゃんとでてくるのですが、あたまのなかではばっちり文章になっているのですが、「書こうとするとぜんぶ飛ぶ」んですよね。たぶんこれ、「脳みそのなかみをほかの脳みそにもわかるようにかたちをととのえて出す」というおしごとをになっていることろが長期おやすみにとつにゅうしてるんだとおもうんですよ。で、いままでそこについやしてたエネルギーをべつのところにふりわけている。
 最近きゅうに「他人とおしゃべり」ができるようになってびっくりしてるのですが、そこと関連してるかな、と。いや、うつになってからずっと、会話についていけないとかしゃべろうとするとどもるとか、ふつうじゃない状況がふつうになっていて、でもこのあいだとつぜん「あれ、いまわたし流暢にしゃべってる!?」って気がついて、あ、なんかまた一段階なおったっぽい、って実感したばかりなんですよ。noteでコメントするのなんかも、秋ぐらいからしばらくいやになってできなくなってたのにきゅうに書きたくなってきたのね。
 うん。ねんまつからくすりの量もはんぶんにへらしたからそれもよかったのかもしれない。このくすりをへらしたはなしもうつでこまってるひとにはやくだつだろうからかいときたいんだけど、こっちはうまくおにぎりがにぎれない感じになっててかけないんだなぁ。って、これもまたね、どんな状態?、こんな状態、って、超デカイばくだんおにぎりつくろうとしてるのにごはんがぽろぽろこぼれてまとまらないパニックな絵がでてくるのよ。

 まあいまね、ここまでかきながら思考がじょじょにふつうになってきた感じがしてて、むしろいまはさいしょにつづっていたようななぞのふんいきをだすのにしくはっくしてしまうくらいわりかしふつうのちかくにもどってきてるんですけど、ほんとにさっきまで素で「アルジャーノンに花束を」の文章みたいになってたわ。あたまが。なんか、こんなかんじなのに生理の前後だけは文章書きたくなるみたいで、デトックスついでにあたまの便秘も同時に「出して解消(≧▽≦)b」しようというところがあほっぽくてちょーうけるんだなこれが。

 とにかくいまは、かける感じがきたらうまくつかまえるむりならむりで生理がくるまでまつ、みたいな。きょうはまあ、ひかくてきうまくつかまったほう、みたいな感じです。

 

 あ、それと。
 自分の脳みそのなかみを他人の脳みそが理解できるように書く、というのは、思っている以上にふくざつな作業で困難な作業で、だれにでもできるかんたんな能力ではなさそうです。ましてや病気や障害や生まれつきで脳みそレベルで能力にロックがかかっていたら、そのひとには現状のままではほぼ不可能です。

 まあ、その実例が上記の文章です……あれ、書けんときのマジの素の状態。素で書いたうえにあきらかなミス以外は無修正。あれでもまだ文字がつづれているだけましなほう。ダメなときはほんとに消える。一文字もかけない。

 だから書ける人はあんいに「だれでもできる」「できないのは訓練が足りないから」とかいわないほうがいい。各人の脳みそを一列にならべるとぴんからきりまでグラデーションがあって、あんたの脳みそはたまたまその成分がおおめの脳みそだったわけ、ってだけから。
 それよりも自分がいま書く能力に恵まれていることを大事にして、余人には到達できないかけがえのない能力としていつくしんで、いまできなくてうまく書けないひとのための代弁者になるくらいの心がけでいてほしい。それでこそ、各人の脳みそにはグラデーションがある、というたんなる自然現象が人間的な意味をもってくる。

 ほとけさまは万能ですが、それをすべて、ちいさく非力なもののためにもちいることを使命としています。だからみんなしんそここまったときにはほとけさまのことを思う。そのうえ万能であるからえらい、とはだれも思わない。めぐみぶかいからえらい、とみんなおもってる。
 万能なのにそれは閑却されて慈しみのこころざしゆえに尊崇される。おいおい。ちょっとばかしすごすぎるぞ、ほとけさま。

 いくら力があってもこまったときに、「あの人がいるから大丈夫」と安心してもらえないような能力者なんか、あわれなものだと思います。

 

 

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いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。