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共に生きている誰もが大切にされている世界を育むとしたら、何が必要でしょうか。【問いを贈ろう】9月2日

 今回も、PICES の問いを贈ろうキャンペーンに、勝手ながら note から参加してみたいとおもいます。

 NPO法人 PIECES は、「子どもの孤立を防ぐ」ことをテーマにしている団体のようです。
 それゆえ、キャンペーンで贈られる20の問いの種類は、自分を見つめ直すものから社会のあり方を考えるものまで、幅広いものとなっているようです。

 

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9月2日の「問い」

共に生きている誰もが大切にされている世界を育むとしたら、
何が必要でしょうか。

 うーん、壮大だ。問いが壮大すぎて返答に窮してしまう。
 だからといって、「全員が全員大切にされる、ってそもそも可能なのか? 無理だよ……理想論もたいがいにしようぜ!」なーんて、ヤボなこというのはイヤだよね。だって、理想論をけなすのって、なんかかっこよさげだけど、実際は、現実に起きてる問題に目をつむる自分をごまかしてるだけだもの。

 問いが壮大なので、私の答えも壮大になっちゃう。
 ズバリひと言でいうと、

 日本国憲法第13条の「すべて国民は、個人として尊重される。」を、社会人の道徳のレベルにまで徹底する。

 っていうことになるのかなぁ。

 

 ちょっとながくなるけど、ここで、最近の個人的な経験をば。
 ずっと五百蔵をフォローしてくれている皆さんはご存知のとおり、私は、うつで障害手帳をもらってます。そのまえは、障害者のための作業所で支援員をしてたから、ケアする方からケアされる方へ、という立場の転換を経験してるんですね。
 それだけじゃなくて、この数年は、義母の認知症が劇的に重くなったり、義父も突然体調を崩して自宅で暮らすのが無理になったり、子どもは子どもで楽しく不登校になったり……夫以外の家族全員、社会のメインストリームから脱落しちゃったのですよ。

 んで、そーゆー怒涛な日々のなかで、なにを感じてたかというと、

 ケアされる方からは、世界がどう見えてるか?、っていう視点が、いたるところで欠落してないか?

 っていうこと。
 それはたとえば、自分の過去の仕事ぶりがどうだったか、っていう反省もあるし、夫が両親のために一生懸命やってるんだけど、なんかポイントがズレてる感じするとか。そんなようなところから感じます。
 不登校児へのフォローなんて、いやそもそも子どもって未完成なんだから、登校できなくなることもある、って前提で教育システムを組んどくのが筋なんでは?、っていまさらながらに思ってるし。

 

 ……というかんじで、このあといろいろ書いてみたんだけど、うまくまとまらなくてぜんぶ消しちゃった……
 いまはまだうまく説明できないんだけど、

 ケアを、「ケアを必要とするそのひとそのもの」から出発させる。
 そのひと「個人」が生きていくうえで、なにが困っているか、そのひとのなかに入って、なかから空を見上げるようにして見出す。

 とにかく、「個人」。そのひと「個人」から出発することに徹する。

 「共に生きている誰もが大切にされている世界」を目指すなら、ずっと日本人がやってきた、「集団の求める枠組みに個人を適応させる」から、「お互いニーズを把握しあって、折り合いをつけながらうまくやっていく」に変わってかなきゃいけないんじゃないかと思う。
 そのためには、「個人」から出発する、というものの見方を身につけないといけない。

 くりかえしになるけど、とにかく「個人」。そのひと「個人」から、ということにこだわらなくちゃいけない、っていう思いがいまの自分はすごく強い。

 

 やっぱりまとまりきらないので、もう、強引に結んじゃうけど。

 対人関係の道徳として「個人の尊厳」が中心におかれてるような、そんな世の中。
 そんな世の中だったら、隣り合ったひと同士が、相手を否定することなく自己主張し合い、耳を傾け合い、上手く折り合いをつけ、支え合う、ってことが、いまよりもっとスムーズに出来てるんじゃないかな?

 もちろん、社会の仕組みを整備していく、っていう大きな変革も必要だよ。
 だけど、仕組みのすき間で取りこぼされていく困りごとや、個人個人の細かいニーズをすくい上げるのは、やっぱり、たまたま隣にいた誰かの役目だとおもうから。ひとりひとりの常識を変革することも、まけずおとらず大事だとおもう。

 「共に生きている誰もが大切にされている世界」ってそんなふうにして招き寄せていくものなんじゃないのかなぁ……

 



#問いを贈ろう #個人の尊厳  

いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。