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春はタイルを敷き詰めるように

 まあ、ようするに、この記事↓のつづきです。

 この日には一輪しか咲いてなかったしゃがも、気がつけば花の群れとなっていました。義父の家庭菜園でも菜花がつぎつぎと黄色くなるし、小松菜はとうがたってつぼみが大きくなっているし(昨日やっと全部収穫した!)、地表のいたるところが咲きたての花で埋め尽くされようとしています。
 こんなのをまのあたりにしていると、

 地上に「花」というタイルを敷き詰めるようにして春はやってくる、

 という感じがします。もしくは、大地全体を覆うようなリバーシ盤の目があって、一マス一マス、冬の黒コマを春の白コマが挟んで、ひっくり返して着々と陣地を広げていっているような。
 冬と春のせめぎあいは、天上での決着は先日着きましたが、地上における陣取り合戦の決着が、いままさしく着こうとしている、って感じです。

 

 「春」が来る、にも順序がある、というのはあまり深く考えたことがありませんでした。

 まず、「立春」で暦上の春が立ち、梅が咲いて、「冬」という凝りに楔を打つ。
 冬と春がせめぎあうなかで、たどたどしかった鶯が、上手に鳴くようになる。
 徐々に日が高くなり、日照時間が増え、風はやわらかく、空気がしっとりとしてきて、まずは、天とそこを満たす気が一足早く「春」へと切り替わる。この瞬間が、たぶん、前回の記事でとらえていたことです。

 天と気の変化に呼応して、「色とりどりの花が開き、増えていく」、そしていたるところに花が咲いているのがあたりまえになる、という形で、地表の春が広がっていく。
 これが、私がいままさに目の当たりにしている光景です。

 そして、梅から桃、山桜へとリレーされてきた花木の開花が、染井吉野の爆発的な満開で締めくくられ、春はピークをむかえます。
 桜のつぎは藤がくるのだけど、桜の退潮は夏を呼び込み、咲く花の色はピンクと黄色をメインとした「カラフル」から白と紫が基調となり、こんどは緑が強くなる。
 日射しも、白さと、輝きと、強烈さを増してゆき、湿度もじっとりと高くなり、「初夏」となる。

 突き刺さるように日が爆ぜ、蛙の声が多く聞こえるようになったら、もう間違いなく「初夏」です。

 

・◇・◇・◇・

 

 俳句の「季語」って、季節ごと、だけでなく、月ごとに定められていて、

 うわっ、これ縛りきつくてうざっ……Σ(・∀・|||)

 としか思ってなかったけど、そうではない。
 「春」と大きくくくられた季節のなかに、段階があり、時期に応じた変化があり、事象がある。
 その刻々たる変化を綿密にとらえようとすると、ほんとは月ごとに分けるよりももっと細かく分ける必要があるのかもしれないんだけど。

 「季語」から入るから、うざい縛りと感じるわけであって、季語のもととなった自然の風物、人の営みから入ると、なんのことはない、たんなる「自然観察、人間観察の結果を季節ごとに時系列で整理した」ということでしかないことが見えてきます。
 そして、観察に基づいて積み上げられた客観性のあるものだから、「季語」を用いれば、日本全国、どこでも誰でもその句の背景となる空気感が理解できる……という仕組みになっている。

 えーと、あまりうまくいえてませんね……こういうのはどうでしょう。
 「桜が開花する」という事象がおこるための気候的な条件は客観的なもので、どこで花咲くとしても一定に定まっている事柄です。「桜が散る」という事象も、花の一生のどの時点でおこるイベントか、一定に定まっています。
 それぞれの時節の到来する日付は地域差がおおきいのですが、どんな気候のもとでそれがおこるかは、似かよっています。だから、桜にまつわる季語を見ると、季語の示す情景とともに、句に詠まれた出来事が「春」がどのくらい成熟した頃の出来事なのか、理解ができます。

 ちなみに、こちらに↓桜の開花日を予想するための計算式が載っていました……人間すごい、のひとことです。

 こんな風に考えていくと、「季語」は文学だけど、同時に自然科学です。
 この時期にはどの花がどう咲くか光の加減はどうか風はどう吹くか服は何枚重ね着しようか……等々を知悉していて、つまり、詠み手も読み手も自然や人間の活動の優秀な観察者でかつ豊かなデータの保持者であってはじめて絶大な効果を発揮するシステム、それが「季語」だ、といえそうです。
 月ごとに細かく定められているのは、記憶を補助することと、地域差をならして互いに理解しやすくするため、と考えることができます。

 

・◇・◇・◇・

 

 日本の文学のいちジャンルである俳句が、

 「観察」、つまり、科学の目で事象をながめ、季節のなかで物事の起こるべき順序を明らかにし、
 観察の結果得られた知見、つまり「季語」を基盤に互いの文学を理解しあい、共感しあっていて、
 科学の目で物事をみつめればみつめるほど文学性が豊かになる可能性がひらける、

 というのは、驚きです。
 え、そんなん初耳やって?……そりゃそうでんがな。私もいまさっきここまでたどりついてみて、びっくりしとるところやがな。

 それなのに、日本人自体は、科学の目で事象をとらえ、議論するのは苦手です。今回の新型コロナのあれこれでも、その弱点が露呈してて、なんだか悲しくなってきます。

 女性オンリーの句会で、「TUBEが夏の季語でないのはおかしい」という意見が出て、その同人では「TUBE=夏」でOKになった、なんてエピソードをどっかで読んだことがあります。
 だけど、「いまここ、で感じるありのままのリアリティー」と「伝統という先例」と、どちらを重んじるか、となったら、昔から受け継がれてきた枠の方をとってしまいがちなのが日本人。だけど、伝統という名のもとに「ありのままのいまをみつめる」ことを否定したら、科学的なものの見方なんて、育ちようがない。伝統だって、腐ってしまいます。
 せっかくの細やかな自然観察眼が、感受性が……なんてもったいない。

 

 さらに。
 都市化の進展は、日本人をますます自然から切り離していっています。それは、四季の移り変わりを肌身で感受し、身体の記憶として蓄積する機会にめぐまれない人がどんどん増えている、ということです。
 これではそもそも、「季語は自然観察、季節にともなう人間活動の観察の賜物である」という気づきにいたることもできやしないし、実感にもとづいて季語を用いることもできない。めずらしいことばをただもてあそぶだけ、になってしまう……まあ、もちろん、めずらしいことばをとおして、昔の人が見ていた微細な季節の変化を再発見できる、という効果は否定しませんが、それも、肌身に接した自然あったればこそ可能になることで。

 人が自然のほとりで生きるのをやめたら、日本の古典文学はすぐれた受信者を失って、痩せ衰えて、滅びる、と私は思ってます。
 衰微する里山が、かろうじて、現在の日本と、古典文学の時代の日本とを繋ぎ止めていますが、断絶するも間もなくのことと思われます。
 外来種の侵略も、それに追いうちをかけています。

 里山を失ったら、日本はもはや、「日本」という名の別の国です。
 私はそれが惜しいです。

 

 

 

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いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。