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40日間コロナ休業したマジシャンが本気で考えたこと(後篇)

※前篇はこちらです

マジシャンは観客に何を伝えられるのか

 不遜ながら、これについて明確な回答をもっている同業者を、私はほとんど知りません。

不思議を感じたいなら、パズルでもいい。
笑いたいなら、お笑いでもいい。
感動したいなら、映画でも小説でもいい。

 ウィズコロナの時代に与えられる価値を明示できないとコロナ禍を乗り越えることが困難なのは、飲食店もマジシャンも、いや、どの業種においても同じでしょう。

「マジックは夢」
「マジックは魔法」
「マジックは魔法で夢を与えるもの」

 おそらくは同業者のなかで一番多いこの主張ですが、実は私は、これには同意できないのです――不要な火種を避けるために明言しておきますが、これはあくまで「私が同意できない」というだけで「他者がその理念を理想としていること」はまったく否定していません。

 素晴らしい映画を観た後で、反対に、気分が落ち込んでしまうことがあります。

 画の世界ではなにもかも上手くいっていったのに、私の現実はそうじゃない――そう考えてしまうのです。
 虚構の世界が素晴らしいほど、その感動が大きいほど、現実に引き戻されたときの反動もまた大きいのではないでしょうか。

夢からはいつか覚めてしまい、魔法はいつか解けてしまうのではないか。

 悲観的すぎるようですが、この諦念からスタートしないと、ウィズコロナという「死の可能性を世界中の人間が否応なく突きつけられた」このメメント・モリの時代――その「現実」に対して、「フィクション」であるマジックが与えられる価値を見出せないのでないか。

 これを私は、本気で考えたのです。


#ゆたかさって何だろう (第一の結論)

ウィズコロナの時代における、カフェやバー、マジックの価値とは――

 これについて考えているとき、ふと目に触れたのが、このnoteの投稿コンテスト「#ゆたかさって何だろう」でした。
 これを目にした瞬間、天啓に打たれました。

 外食に求められているのは、ゆたかさなのだと。

 正直、外食は贅沢です。
 当たり前ですが、エンターテインメントは嗜好品です。
 ならば、その贅沢や嗜好に全力で応えることこそが、飲食店やマジシャンの使命に他なりません。

では「ゆたかさ」とはなにでしょう。

 キーワードは「選択肢」です。
 たとえば、他人を傷つけてしまった人のほとんどは、本心でそうしたかったのではなく、その選択肢以外を考えられなくなった結果、本心とは裏腹にそれをしてしまったのではないでしょうか。
 コロナ禍のなかで運送会社の配達員に向かって除菌スプレーを噴霧した人は、コロナウイルスを恐怖したあまり、その選択肢が最善なのだと考えてしまったのでしょう。

『ゆたかさとは、選択肢が豊富にあり、それを自由に選択できること』

 ――これがコロナ禍のなかで私が見出した、第一の結論です。


「ハレ」と「ケ」(第二の結論)

「ハレとケ」という、民俗学者・柳田國男による学術用語があります。
 一言で言えば、「ハレ」は祭礼、「ケ」は日常のことですが、本稿では「ハレ=非日常全般」くらいの意味でとらえていただいてかまいません。

外食とエンターテインメントの共通項――それは「ハレ」であることです。

 残念ながら、我々の日常は、必ずしも良いことばかりだとは限りません。
 ときには、それから目を背けたいときもあるでしょ。

飲食店とは、マジックとは、つかのま、日常から離れるための「選択肢」なのです。

 私は、この「つかのま」を、大切にしたい。

 マジックは、いつか解ける魔法。
 マジックは、いつか覚める夢。
 それが事実でも、一向に問題はありません。

いつか覚める夢でも、いつか解ける魔法でも、その「つかのまの非日常」の時間があることで、日常がより光り輝いて見える――そういった「選択肢」を、私はお客様に提供したいのです。

 そのうえで「ゆたかさとは、選択肢が豊富にあり、それを自由に選択できること」という第一の結論に立脚するなら、マジシャンの使命はもはや明白です。

『マジックにしか生み出せない非日常という選択肢を、社会に提供する』

 ――これがコロナ禍のなかで私が見出した、第二の結論です。


マジックにしかできないことはなにか(第三の結論)

 そもそも、マジックとはなんでしょうか。

 近代奇術の父、ロベール=ウーダンの「マジシャンとは魔法使いの役を演じる役者である」という有名な言葉がありますが、ここで言及されている演劇性に着目すれば、
「不思議に立脚したフィクション」
 これがマジックの本質だと言えるでしょう。

不思議を感じたいだけなら、笑いたいだけなら、感動したいだけなら、マジック以外のエンターテインメントで代替可能である。

 マジックであることの優位性を考えるためには、やはり、この揺るぎようのない事実、悲観的な諦念を直視し、これに立脚するしか道はありません。
 先述の定義をポジティブにパラフレーズするなら、不思議に立脚したフィクション、その「すべて」がマジックであり――つまり「不思議を核としてなんでも取りこめる」、この「雑食的貪欲性」こそがマジックの絶対優位性なのだ……
 そう、私は考えました。

『マジックの「ゆたかさ」とは、ただ不思議なだけでもよければ、不思議によって不思議以外のなにかを表現してもよい――この「不思議に立脚した表現における選択肢の多様性」にある』

 ――これがコロナ禍のなかで私が見出した、第三の結論です。


「神は乗り越えられる試練しか与えない」は本当か

 マジックは、ただ不思議なだけでもよければ、不思議によって不思議以外のなにかを表現してもよい――これが明白になったことで、不思議によって「なにか」を表現したいという欲が、私のなかに生まれてしまったのです。

『マジックはなによりもまず、不思議であるべき』――この強い信念に基づき、長年、私はひたすらに不思議の強度のみを追い求めてきました。
 マジックはそれ自体目的であってもいいし、手段であってもかまわない。
 しかしどうやら、これまでの私は「目的としてのマジック」のみに注力しすぎたようです。

 目的としてのマジックとしての成果である「不思議さ」を棄てる必要は当然ながらないので、あくまでこれを土台としつつも、これからは「手段としてのマジックの追求」という表現の新たなステージに登るべきタイミングが、私にはきたのかもしれません。

マジシャンとしての私は、お客様に何を伝えたいのか。

 マジックをはじめて28年、プロマジシャンになって11年……これほど悩んだことはありません。
 ですが、ウィズコロナ――メメント・モリの時代にも負けないだけの「強度」のある「現実と地続きのなにか」を、マジックによって伝えることができなければ、私がマジシャンとしてこの世界に存在する価値などありません。
 ゆたかさとは、選択肢が豊富にあり、それを自由に選択できること――これについて考えるなかで、思いだした言葉があります。

『神は乗り越えられる試練しか与えない』

 実は、元々は嫌いな言葉でした。
 試練に立ち向かうには心強い言葉ですが、試練に負けてしまった者に対しては、あまりに冷淡で残酷で無慈悲な言葉なのではと思っていたのです。
 ところが数年前、その出処を調べたところ、考えが変わったのです。

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
――新約聖書、コリント人への第一の手紙 10章13節

 神は試練とともに、それから逃れる道をも与えてくれる。
 試練から逃れる道――
 この選択肢があるからこそ、人々は試練に立ち向かえるのかもしれません。

 選択肢があることで、人間は希望を得られる。

 このことに気づいた瞬間の興奮を、私は生涯、忘れることはないでしょう。


コリント人への第一の手紙 第13章

 先述の言葉のある、新約聖書の「コリント人への第一の手紙」には、有名な一節があります。

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。
(後略)
――新約聖書、コリント人への第一の手紙 13章4~8節

 新郎新婦に牧師さんが説いているのを、訊いたことがあるかたも少なくないでしょう。
 この言葉は、結婚式においては、以下の一説に続くことがほとんどです。

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
――新約聖書、コリント人への第一の手紙 13章13節

 信仰、希望、愛。
 私個人はキリスト教徒ではないので――敬虔な教徒の皆様に対しては畏れ多くも――この三つについて、不遜ながら、フラットな視点で考えさせていただこうと思います。
 非常に個人的な感覚で申し訳ありませんが、これらのなかで、最も「未来」に対するイメージが強いものは「希望」ではないでしょうか。

 私は、マジックを愛しているし、マジックに対する一種の信仰めいた想い――一般的な意味での神様がいるどうかは私にはわかりませんが、それでも「マジックの神様」「創作の神」「芸術の神」のようなものだけはその存在を感じる時があるのです――もあります。
 しかし、私のここまでの文章の細部に散見される悲観的視点や諦念からもわかるとおり、これまでの私は、マジックが好きでありながら、マジックに対してはあまり希望をいだいてきませんでした。
 いや、マジックに対してではなく、これは「マジックに携わる自分に対して希望を抱いていなかった」「マジシャンとしての自分の能力や可能性を信じきれていなかった」というのが正しいでしょう。

 私に、私のマジックに、決定的に足りなかったのは希望だったのです。

マジシャンである私は、お客様に何を伝えたいのか(最後の結論)

 ここまで引用を交え、長々と書いてきましたが、最後くらいは自分の言葉だけで語りましょう。

***

 私たちはなぜ、スポーツを見て感動するのでしょう。

 考えてみると、不思議ではないでしょうか。
 アスリートが私たちに何かしてくれるわけではないのに、私たちはただの傍観者でしかないのに、私たちとアスリートは基本的に無関係なのに――
 どうして、私たちは感動するのでしょうか。

 観客を感動させるために、アスリートは走るのでしょうか。
 観客を感動させるために、アスリートは跳ぶのでしょうか。
 観客を感動させるために、アスリートは闘うのでしょうか。

 違うでしょう。

 誰よりも、速く走りたい。
 誰よりも、高く跳びたい。
 誰よりも、強くなりたい。

 走る。
 跳ぶ。
 闘う。

 それが「好き」だから、アスリートは限界に挑戦するのです。

 ただ、自分の好きなものの果てにある自分の限界に、力あるかぎり、全力で挑戦する。
 それは、誰でも同じです。

 空を飛ぶ。
 それは人々の夢です。

 なぜ、夢は夢なのでしょう。
 それは不可能だからです。
 不可能だからこそ、人々はそれに向かって挑戦をするのです。

 飛行機という科学の翼でライト兄弟が空を飛んだように、トリックという魔法の翼でマジシャンは不可能に挑戦します。

 飛行機が空の旅を可能にしたように、マジックは心の旅を可能にできるはずです。
 飛行機が人類を豊かにしたように、マジックは人生を豊かできるはずです。

 豊かさとは「選択肢がある」ということ。
 選択肢の先にあるもの。
 それは希望ではないでしょうか。

 飛行機が人類に新たな可能性を示したように、マジックは人間に希望に示せるのではないでしょうか。

 マジックは虚構にすぎません。
 しかし、マジックには物語があります。

 マジックは現実ではありません。
 しかし、マジックには夢があります。

 マジックは本当の魔法ではありません。
 しかし、マジックを見た人々の心の中に、魔法は宿るはずです。

 マジックとは、不可能への挑戦の物語です。
 マジックとは、可能性の象徴です。
 つまり、マジックの先には、希望があるのです。

 マジックは、夜の夢にすぎません。
 マジックは、かりそめの魔法にすぎません。

 しかし、夢が覚めてしまっても、魔法が解けてしまっても、それを見た人々の心の中に生まれた希望だけは、いつまでも残るのではないでしょうか。

私は、マジックで、「希望」を表現したい。

 ――これがコロナ禍のなかで私が見出した、最後の結論です。



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