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Beが書いたもんどす

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天理教に関してBeが思うことを書いた記事です。批判的なものが多いので、アンチ天理教と思われがちですが、「ホンマかいな?」と首を傾げたくなる「教理もどき」に辟易としている私は、ただ…
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#おやさま

ひながたの同行者「中山秀司」考

序にかえて-おまさのおばんと曾孫の慶一-1.「悲しいくいちがい」中山慶一 いきなりの引用で恐縮ですが、敬愛する中山慶一先生の言葉を紹介します。 道の先人が遺してくれた言葉に触れる時、ときおり「ハッ!」とさせられることがあるのですが、慶一先生の「そらもう、親を思う秀司先生の、人間としての真実の心と、人間の親としての教祖の御思いとは、いつでもくいちがう、悲しいくいちがいやな。」という言葉を目にした瞬間、僕は胸を締め付けられる思いがしました。 慶一先生、さすがは"おまさのおばん

鳴物の勉強-実践の心得-

ここ1年ほど毎夜のごとくスペースを開き、朗読などという身の程を弁えぬことを行っているのですが、朗読後に別枠で立ち上げる雑談コーナーの中で、おつとめの地歌の音階や鳴物について様々な疑問や意見が寄せられるようになりました。 そのことについて、僕はとても嬉しく思うと同時に驚いてもいます。 正統的天理教信仰者の斜め上(いや、斜め下か?)を歩む僕がホストをするスペースで、まさかおつとめについて意見を闘わせる日がくるなど、誰が予想できたでしょう。 そんなわけで、今回は僕の拙いスペースに参

(続)春季大祭を迎えるにあたり-『御教祖御臨終のおさしづの考察』より-

明後日はいよいよ春季大祭です。明治二十年陰暦正月二十六日に思いをいたす上での参考になるやもしれぬ、と感じましたので、取り急ぎ記します。 前々回の記事『春季大祭を迎えるにあたり-明治二十年陰暦正月二十六日のおさしづ割書から-』でも掲載しましたが、以下に明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)午後の『おさしづ』の割書を引用します。 この割書に続いて とのお言葉が下ったのは皆さんご承知の通りです。 『みちのとも』立教99年(昭和11年)6月号にこの時の状況をさらに詳しく記した

春季大祭を迎えるにあたり-明治二十年陰暦正月二十六日のおさしづ割書から-

本年最初の記事になります。 盟友いっけん氏によるnote『春季大祭を前にして、明治20年陰暦正月26日午後の割書とおさしづを読む』を読んで思ったことを記します。 いっけん氏は上記の記事の中で、割書を「考察」するのではなく「味わう」ことに注力したと言います。 また「この記事の思案は私の“肌感覚”であって、教学を修められた先生方の考察には到底及ばず、しかも及ぼうとも思わず、陰暦正月26日の『割書』『おさしづ』を音読すればするほど伝わってくる、おやさまお隠れ当日に至る情景を追い