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『もののけ姫』から『踊る大捜査線』を経て『千と千尋の神隠し』の若者像

これは、なーんの学術的根拠を有しません。エッセイです。

先日、金曜ロードショーで宮崎駿監督の『もののけ姫』が放送された。
僕にとっては、昨年映画館で再上映されたのを鑑賞して以来の『もののけ姫』だった。
あわせて『踊る大捜査線 THE MOVIE 湾岸署史上最悪の3日間!』も観たのだが、なぜ“あわせて”かというと、『もののけ姫』の次作であり、ジブリ最大(ジブリどころか鬼滅~以前日本最大)のヒット作である『千と千尋の神隠し』が生まれるきっかけとなった映画だからである。

正確には、『千と千尋の神隠し』が今の形になったきっかけだが。
鈴木敏夫プロデューサーは『踊る』を観て、若い監督の描く、リアルな若者像に衝撃を受け、宮崎監督に感想を話しにアトリエに足を運んだそうだ。

「何なんだ、これは!」。僕はびっくりしました。コメディタッチの刑事もののフリをしながら、いまの若者たちの気分、ものの見方、行動パターン、すべてが見事に表現されている。これが現代かと思い知らされました。
そのとき、僕の脳裡に浮かんだのが、『煙突描きのリン』のことでした。宮さんも還暦間近。そんな老人がリアルな二十歳の女の子を描くことができるんだろうか? 引用:『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』 鈴木敏夫著

宮崎監督はその話を聞き、イメージボードを外し、「この企画ではだめってことだろう、鈴木さん」と一年かけて練り上げた構想を一から作り直すことを決める。超シブい。

このエピソードが数ある宮崎駿鈴木敏夫伝説の中でも、僕が最も好きなものなのだが、ふとその『踊る』を観たことがないなと、金曜ロードショージブリ祭りの予告を見て思い出したのだった。

前置きが長くなったが、『踊る』を観た後に改めて『もののけ姫』を観て、僕なりに感じた『踊る』以前以後のジブリにおける若者の変化を書こうと思う。以前以後といっても『もののけ姫』と『千と千尋の神隠し』に限る話であることをご了承願う。

1.鈴木プロデューサーは『踊る大捜査線』の何にリアルな若者を見出したのか

『踊る大捜査線 THE MOVIE 湾岸署史上最悪の3日間!』のネタバレを含みます

『踊る大捜査線 THE MOVIE 湾岸署史上最悪の3日間!』が公開されたのは1998年。『もののけ姫』は1997年で『千と千尋の神隠し』は2001年。
僕は『踊る』公開当時生まれてすらいないので、『踊る』の若者も『千と千尋』のモデルになった少女も、僕にとっては若者ではない。
そんなスマホネイティブ世代の僕がはたして『踊る』にリアルな若者観を見出せるのかとはじめは疑心暗鬼だった。

映画には、最近何かと話題になった「90年代サブカルチャー」の魔窟感があったように思う。
大して詳しくないが、インターネット黎明期、まだ2ちゃんすら生まれていない時代に、チャットを使いこなせる人は今よりずっと少なかった。
『ヱヴァンゲリヲン』シリーズの庵野秀明監督をうつ病に追い込んだのもそんな時代のチャットである。
今以上に若者が何を考えているか分からない、そんな恐怖があったのではないだろうか。

今でもモノマネなんかでよく聞く「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!」というセリフが印象的な、現場至上主義、雑草魂、所轄上等で上下関係なしに捜査するアツい連中が追った先にいたのは、事件を起こすことそのものが動機であるような空虚な若者だった。

更に今後のシリーズでハンニバル・レクターのようなポジションにつく小泉今日子演じる、謎の女日向真奈美も空虚な恐ろしさを内包する。何のために事件を起こしているのか全く分からない。それは、ホラー映画に登場するような恐ろしい殺人鬼とは違う恐怖である。
チャットの中では男性のような言葉遣いで会話する日向のことを、新人刑事(水野美紀)は男性だと思ったまま会う約束をする。

性別も名前も顔も知らない人間と会話し、実際に会うなんて異質な状況、鈴木おじちゃんはさぞ驚愕したことだろう。
当時の空気感を感じたことがないので分からないが、リア凸は当時としても一般的なことではないだろう。知らんけど。

更に大勢が集まる中、日向は新人刑事を刺す。近くにいた客、見張っていた青島ら、刑事たちですら一人も犯行を目撃していない。
まるで、あふれる情報にもまれながらどれを選択して良いか分からない情報化社会のメタファーのようだ。

必死に情報を得ようと能動的になるまでもなく、ありとあらゆる情報を手に入れることができる世の中が訪れたことへの衝撃。
それにより、隣の人間の情報を何一つ手に入れることができない現実への驚愕。
鈴木プロデューサーが劇場で感じたことを、僕も感じられたのではないかと思う。

2000年代以降の映画でそんな風にインターネットや若者を空虚であるかのように描くことはある種ステレオタイプとなり、簡単に描いていいようなものではなくなった。ステレオタイプの恐ろしさについてはここでは書かないので各々考えてください。

宮崎監督のインターネット嫌いは有名な話だ。宮崎監督には到底思いつかない若者像だと鈴木プロデューサーが感じたのも容易に想像がつく。

2.『もののけ姫』の現代人

宮崎監督とは正反対に、熱心にツイッター活動をおこなうジブリは、今回のように地上波放送があるたびに、質問を募集して制作陣が回答している。
だから僕が改めて『もののけ姫』の現代人について書く必要はないように思うのだが、ツイート内容に加えて僕が感じたことを書こうと思う。

エボシは、売られた女たちやハンセン病患者にも仕事を与える、近代国家において超理想の上司なのではないかとニートの僕は思う。
鉄踏みの仕事なんて重労働、体力的には男性にやらせたほうが効率が良い。エボシが機械的な人間だったら、そうしただろう。しかし情もしっかりと持ち合わせている。だからこそ、アシタカに殴られ意識を失ったエボシを最初に介抱しに行くのは女性たちなのだ。
そうした肝がすわっている女性を描きたかったというのもあるだろうが。


こちらに詳しく書いているが、アシタカやサンもまた若い少年少女の図である。アシタカは非常に聡明で寛容的だが、そういう性格には若さに起因する部分があるだろう。先程書いたように、エボシはけして冷徹な人間ではない。冷徹だから自然を壊すわけでも、神を殺そうとしているわけではない。(これはジコ坊にも同じことが言える)アシタカはまだ何も知らないだけなのだ。

しかし「共に生きよう」と別れるのは本当に真理だと思う。共存とは何も共に生活するというものではない。
リアリズムにこだわった自然描写ではあるが、リアリティを追及しているわけではないような美術……アニメとは何かをしっかり哲学している……
『もののけ姫』好きすぎてすぐ映画をほめる方向に行ってしまう。

とにかく、『もののけ姫』の現代人というのは、アシタカのように地に足をつけ、サンのように自己否定に陥り、エボシのように情に厚く、ジコ坊のように功利的といえるだろう。
アシタカは宮崎監督の中でも稀有な若者らしいが、とりあえず。


3.『千と千尋の神隠し』で取り入れた若者像

1.で記述したように、鈴木プロデューサーは『踊る』の若者像に大変驚愕し、『千と千尋』のストーリーに大きな影響をもたらしたと言っても過言ではないわけだが、具体的に『踊る』を観た前と後でどれほど宮崎監督の若者は変化したのだろうか。
察するまでもなく、大きな変化は主人公の年齢だ。
鈴木プロデューサーの著書にあるように、もともとの主人公は『千と千尋』に登場するリンの原型と思われる二十歳の女の子である。変わって千尋は九歳。当然、弱弱しく世間知らずで「グズ」(宮崎監督の言葉の引用)な雰囲気を感じる年齢であろう。
『もののけ姫』に限らず、これまでの宮崎監督作品のヒロインは、芯がある強い女性が多い印象だ。母親を投影しているからだとか。

『千と千尋』では、冒頭の車内での会話から、今までとは違うヒロイン像がうかがえる。小学生にとって転校は一大イベントだろう。学生にとっては教室の中が世界のすべてだと感じることが多い。千尋は何も弱くてグズなのではなく、等身大の九歳児なのだ。
ハクにおにぎりをもらい、さめざめとでも、優しくでもなく、大泣きするところからも、優しく強いだけでない女の子像を感じる。

しかし中でも、今までの宮崎監督作品に登場してこなかったキャラクターといえば「カオナシ」だろう。
カオナシは千尋に惚れたのではない。自分に優しくしてくれる人に惚れたのだ。誰かを好きになるのも受動的と言ったら良いだろうか。だから手に入れたい。そこに千尋の気持ちはくみ取られることはない。そんな弱弱しいわがままを繰り広げた挙句、自暴自棄になり暴走する。愛情への飢えも感じる。それが現代人だと言いたいわけではない。宮崎監督の描く人物像の大きな変化なのだ。

カオナシは最初から活躍することが決まっていたわけではない。作画監督の安藤雅司(大好き)と宮崎監督が、このままではとんでもなく長い映画になると判断して、鈴木プロデューサーに相談し、決まったシナリオである。
ここでも鈴木プロデューサー大活躍。本人も意識しないうちに『踊る』で感じたリアルな若者をカオナシに見出していたのだろうか。まあこれは想像の域を超えない話に過ぎないが。

カオナシの、承認欲求と愛や優しさに飢えている様子、相手が喜ぶものを想像できず空回りする様子、愛さずにはいられない弱さが大好きなのだが、あれを嫌う人も多いだろう。もしかしたらそういう人は、知らない間に若者を揶揄しているのかもしれないよ。

4.まとめ

ふと、前述した庵野秀明監督のことを思い出す。
弱弱しい男の子、ツンデレな女の子、深窓の令嬢のヒロインは、いまやアニメキャラクターのステレオタイプとなっている。そういった表面的なキャラクター構築だけではなく、若者のうつ病、メインキャラクターに見られる愛着障害ともいえる葛藤、それに伴う性的描写、どこを切り取ってもセンシティブで新しい。

僕が個人的に好む日本のコンテンツは80年代のものか80年代カルチャーに影響を受けたものが多く、それはそれで独特の空気感をまとっているのだが、やはり90年代のサブカルチャーは異質だと常々感じる。
テレビを観ない宮崎監督もそれを感じていたのだろう。ヱヴァンゲリヲンを観た宮崎監督の「何もないことを証明してしまった」という言葉はまさに、そんな時代を観た“おじいちゃん”が感じたことをすべて表している。

メインカルチャーであるドラマから派生したエンタメ映画『踊る』にもその色が多少なりとも反映されているところを見ても、サブカルチャーに生息していた人が思っているより世間の人々もそれを感じ取っていたのかもしれない。

90年代末に生まれ、2000年代を生きた空虚な僕は、カオナシや碇シンジを愛さずにはいられない。
どんな名監督でも「ああ、年を取ったな」と感じる映画は存在する。敬愛するマーティン・スコセッシ監督はだからこそ老人の映画を作った。

宮崎監督は『千と千尋』以降も若者が主人公の映画を作る。『ハウルの動く城』ではふたたび強い女性を描くが、ハウルはカオナシのように弱く愛に飢えている。宮崎監督の天才性はこうした人物表現だけではもちろん到底語りつくせない。
宮崎監督はアニメ映画監督として、鈴木プロデューサーはプロデューサーとして、常に現実に目を向け、思考し続けている。そのおじいちゃんたちの奮闘を作品から感じ取れるから、僕は2人が大好きだ。

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