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「読書感想文」レシピ ~私が乗り切った方法~

「読書感想文」が本離れの要因になっているという投稿をTwitterで見たのがとても悲しい、というおはなし。

 読書感想文。そう、義務教育期間に逃れられないあの作文の授業、および課題。

 私は読書も作文も好きだったから最初こそ苦痛ではなかったし一度要領を理解した後は書くのに困ったこともほとんどなかったので、私にとって読書感想文及び作文というものは憎む程ではない課題だった。決まったものを決まった形に仕上げ全員が同じものを解答し個性ある答えや考え方が決して許されぬ「こなすためだけの」宿題帳ではない、限りなく自由に近い表現を許される課題。感覚任せに生きる協調性のない自由人である私にとって、作文の課題は救いだったのだ。

 が、どうやら周りの人に聞いてみたところ、マイナスな記憶が強い人もかなりいる。憂鬱だったとか苦痛だったとか、大人になった今ももう二度とやりたくないとか。事実、私が小学生のときは読書感想文が憂鬱だというクラスメイトの方が多かった。読書感想文を思い出すから本が嫌いという子までいた。

 私は友達に誕生日プレゼント何がいいか聞かれてその友達おすすめの本や映画円盤をお願いするくらい、その人の好きな本や映画をネタに話をするのが好きだ。だから個性が出る読書感想文で読んだ本の内容や感想をネタに雑談で盛り上がりたい。

 だが残念なことに、リア友のなかには読書感想文で読んだ本自体の面白さではなく、読書感想文という課題自体のしんどい記憶しか残っておらず本の内容ではなくあの課題への疑問提起だけで終わってしまう人がいる。それがとにかく残念でならない。

 読書感想文に取り組むにあたり、なんとなく体感で学んだ攻略法というか、コツがあった。それを当時の私なりにつかめたので、読書感想文は決して苦行にも負の記憶にもならずに済んだ。そしてそれはどうやら幸運なことらしい。

 ゲームに攻略本が発行されるように読書感想文にも攻略本があればいいのにと思う児童の方へ。もしくは現在相性の悪い先生から教授されざるを得ず生きにくい環境にいる児童さんをもつ保護者の方へ。

 あくまで私が個人的に感じたことのまとめでしかないし、何の学問にも則してはないが、上記のような方の心の重荷を少しでも減らす助けになれたのなら、少しでも本に対する苦手意識を薄められたのなら、とてもうれしい。


1-1. 「読書感想文」を真に受けない


 まず、「読書感想文」という単語から受ける印象そのものを変える必要があった。『書』物を『読』んだ『感想』を『文』にする課題である、というイメージを一切捨てて欲しいのだ。

 なぜなら、読書感想文を審査する人間は、その作文の中に書物の文章そのものへの感想を求めていない。

 では、読書感想文を通じて、教師陣や審査員は執筆者の何を見たいのか。あなたという人となりを見たいのだ。


1-2. 感想を書かない


 これは私の小学生の頃の話だ。これだ!と直感で手に取った本「お星様のレール」の内容に取り憑かれ、何度も読み返し、これなら書けるぞという喜びしかなかった。読書感想文の課題に意気揚々と取り組んだ。熱心すぎて書き上げた原稿用紙は七枚に渡った。四枚以内と言われていたのだが、どこを省けばいいのか幼心にはちんぷんかんぷんだったので、まず翌日の授業で先生に七枚全てを提出し、その場で添削された。

 そしてお察しの通り。内容の半分以上が赤線で削除された。めげずにまた書き直す。しかしまたも大規模に添削される。少しずつ原稿用紙の枚数は減ってはきたが、次第にこんなものやってられるかとキレたくなった。そしてとうとう作文を書くことを嫌いになりかけたところで、その日の授業が終わった。

 言うまでもなくお先真っ暗だ。「言われた通りに感想を書いたのに。読書感想文なのに。ここはいらないと先生に赤線を引かれるのはなぜ?」と泣きそうだった。泣けるなら泣いてしまいたかった。しかし周りのクラスメイトは「最初に書き上げたのを先生に出してたんだからいい方だよ」「あんなにたくさん書いて何回も先生に出しに行ったじゃん。そんなに書けるだけすごいよ」と慰めてくれる。しかし私にとっては、ありがたくはあれども慰めにはならなかった。先生に合格とされていないというのに喜べも安心も出来るわけあるかと内心やさぐれていた。

 それでも、この原稿用紙達は私がこの時間に頑張った証であるのは確かだ。他の子達は新しいものを書き始めるとボツになった原稿をゴミ箱に捨てていたが、私は仮初の栄光である赤ペンだらけのボツ原稿を全て持ち帰ることにした。明日もまた読書感想文の授業がある。それまでに書き直さなければならない。これだけ頑張ってきたという確かな厚みさえ目の前にあれば今後も頑張れると思ったのだ。

 そんな憂鬱な気持ちのままで家に帰り、学習机に赤ペンだらけの原稿用紙達を広げた。最初に家で書き上げた七枚、次に書き直した五枚、次の五枚。全てを書いた順に読み返してみた。

 そして気付いたことがある。肝心の『その本の挿絵や文章表現への感想』を、先生は全く求めていない。寧ろ、登場人物に私自身を自己投影した部分格好つけて教訓のように書いてみた部分こそが求められていた内容だったのだ。感想いらんのかーい。

 当時のとある先生へ。頼むからもっと具体的なヒントを下さい。ノーヒント主義も予習した答え否定主義もただただ児童達には迷惑でした。今の教育現場であんな先生が少なくなったことを願うばかり。


1-3. 「読書感想文」というタイトルがバグ


 ぶっちゃけてしまうと、私は最初に「読書感想文」なんてタイトル付けた人のネーミングセンスがマジ無いわと思っている。審査員の目的も教育理念も全く伝わらない名前にしたのがそもそもの間違いだ。そして全国コンクールにするべきではない。本は教材であり娯楽だ。好きに楽しむ権利は天のもとに人類みな平等である。読書という娯楽も作文という自己表現も、育てていくべき教養ではあるが優劣をつける必要がない。

 かといって私なんぞに崇高かつ端的なタイトルをつける才能がある訳でもない。じゃあ何だったらいいんだと言われたら、なろう系小説みたいな長々タイトルしか付けられないのだけども。そうだなあ、「自己分析力および文章表現能力確認テスト ~ルール:書籍を参考にすること~」とか? ……はい、ネーミングセンス無いのは私の方。

 盛大に滑るだけ滑り散らかしたのでもう怖いものはない。続きだ続き。


2-1. 本を選ぶにあたって


 何においても譲れない主張というものが、誰にでも、何に対しても必ず一つはあるはずだ。読書感想文の書籍選びにあたり、ブレてはいけない指針はただ一つ。

無条件に面白いと感じたものを選ぶ」。

 小学生の読書感想文において、校舎内の図書室で本を選ぶにあたり、ネックになるものがある。その書籍の対象年齢だ。学年に合わせた読解レベルとして定められており、「読まなきゃいけないけどどれがいいかわからない」子への本選びにおける指標になる。

 だが、これはあくまで「お国がざっくり定めたお助け要素」でしかないということを忘れてはならない。「対象学年と定められているものしか読んではいけない」という禁止事項ではないのだ。「私は今4年生だけど6年生向けのこれを読んで面白かったからこれの読書感想文を書きたい」、大いに結構。「6年生なのに5年生向けを選んだら幼稚だとバカにされそうだから、興味ある本だけど諦め」なくたっていい。読みたいものを読め。

 興味を持てない本を課題にしたって身にならない。身にならないものに頭捻って時間をかけるのは努力でも勤勉でもなくただの浪費だ。時は金なり。

 作文とは自分という人間を文字の羅列で描く自由だ。早生まれと遅生まれでは脳の発達度が異なり、生育歴の違いで興味も違う。対象学年ではない本に興味を持った場合に当然ながら先生は抵抗を示すかもしれないが、そこは熱意で押すのだ。というか押した。押しに押した。

 これまた私の話になるが、対象学年が下の本を選んだ時に担任に君なら上の学年のものを読んでもいい作文が書けると思うよとまで言って貰えた。が、「今最初の三ページ読んでこれしかないって思いました。絶対にこれで書きます。作文の内容が駄目だったら諦めて同じ学年のやつ読んで書き直しますから」と押し切った。結果、書き直さなかったどころか職員室で複数名の教諭よりお褒めの言葉を頂いた。あの時勇気を出して本当に良かったと今でも思う。私は11月生まれなので春夏生まれが多かったクラスの中でも情緒や理解力の発育が遅れている方であるうえに、元来の性格でその時リアルタイムで学んだばかりの授業内容や時事に則したものの方が興味が持てたのだ。同じ対象学年の本はどれも、当時の私にとってはとっつきにくかった。

 作文って、ものすごく精神力と体力を使う。頭に湧き上がる感覚の言語化に集中し、具現化した語彙の表現を創意工夫し、読ませるための取捨選択と整理を繰り返し、修正される度にモチベーションを保つべくメンタルコントロールの術まで学ぶ。楽しくても辛くても一貫して脳ミソの重労働であることには変わりない。

 読書感想文にあたり本はパートナーだ。読んでいて心から楽しく面白い作品だと思えなければやってられん。周りの声は作品の完成度で黙らせられる。終わり良ければ全て良し。概ねのルールに則しているなら好きなものを読むべきだ。


2-2. 本を「本の中から」探す場合:帯


 興味を持てる本がないという児童さんは、書籍を探すための強迫観念から少しでも解放されますように。私の小学生時代にはネット環境が今ほど日常ではなかったというか本当に限られた人しか扱えなかったので、今の児童は本当に恵まれている。その恵まれた環境を存分に活用してみてほしい。今や通販サイトも本屋も無数に存在する。

 本に興味はないけど文章を読むこと自体は苦痛ではないという子は、本屋や図書室、図書館などに恵まれているのならば必ず行こう。現物に一冊でも多く触れるに越したことはない。

 数多並ぶ本の中で注視するにあたり、いちばん優先すべきは本の帯と裏表紙のあらすじ、宣伝POP、表紙やタイトル。

 なかでも本の帯は、本に個別についた「買わせるための広告」だ。帯をしっかり読んでもなお興味を持てないなら、あなたには縁がなかったという明確な指針になる。そして帯の文章表現は、作文を書くにあたって必ずや表現方法のヒントになる。「この本が面白い理由」をあれだけ細い紙切れ一枚に集約しているのだ、帯をなめるな。帯とは本がもつ求心力。何十人何百人という児童の読書感想文を全て読む教師陣の心に爪痕を残す文章表現を身につけたいのなら、帯と表紙カバーは書籍本体よりも雄弁であるということを学んでほしい。

 なぜ学校には必ず図書室があるのか。図書室は、読書感想文や授業の課題で学校から出ずに課題書籍を探すためだけの場所ではない。本とは、国が生きとし生ける全ての児童と学生に平等に与えてくれる「人生を謳歌する権利」だ。だれもが無償で好きなだけ楽しんでいい娯楽であり教材、それが本だ。

 なぜ読書感想文なのか。ゲーム感想文でも映画感想文でも観劇感想文でもなく、読書感想文なのか。金銭的な理由でゲームを買えない、ネット環境にない、映画を観れない円盤を借りられない、ミュージカルも演劇も観に行けない、それでも学校に行けば図書室に並ぶ本がいつでもあなたを待っている。

 対象学年という壁を葬り去ったとき、図書室の全ての棚が君の友達になる。


2-3. 本を「本ではないもの」から探す場合


 ネット通販で買えないものを日常で探すほうが難しい時代だ。長期に渡る夏休みの課題になることがほとんどであろう読書感想文に使う本を、ネットで選ぶこともあるだろう。

 本を読むことが苦痛だとか気が進まないという子に本を読めと言い聞かせても怒鳴っても、その子が本に興味を持つことは決してない。むしろ自分の現状を人格の如く否定された記憶だけが心に残り、余計に本から遠ざかるだけだ。

 「アニメやドラマなら見れる」「ゲームなら楽しんでいくらでもできる」、そんな子は原作になっている書籍が文学であり先生が許可してくれるのなら是非とも読もう。原作書籍がないのなら、時代背景や世界観・テーマが似ている作品を探すのはどうだろう。ジブリの原作書籍に手を出したっていい。

 それすら苦痛なら、自分や自分の周りにいる人と似た人物や環境設定が出てくる本、興味をもっていることそのものがでてくる本を選ぶといい。より話に深く入り込める。ネットでの検索が主になる場合は検索方法を工夫しよう。たとえば台風のニュースで避難所生活のインタビューシーンが気になったのなら、「災害 避難 児童文学」など。同じタイトル同じ内容の本が色々なデザインで数種類出版されていたら、表紙のデザインや挿絵の好みで選ぶと吉。

 通販サイトの商品レビューには、読んだ人の感想が載っている。レビューで気になったから読んでみようと思った、そんなきっかけでも構わない。実際に読んで面白ければ人生の益になるのだから良し。気になったレビューは印刷やスクショなどで保存しよう。その本を読んでみようと思わせたレビューの文章力は、作文において必ず参考になる。但しパクるのはNG。

 保護者さんや周りの人へ。作文や読書が嫌な子には嫌な理由がある。苦手な子には苦手になったきっかけがある。頼むから理由のない「ちゃんとやりなさい」「はやくやりなさい」を言わないでほしい。やりたくない理由にどうか可能な限りでいいから真剣に向き合ってほしい。理由さえわかれば寄り添える。理由を具体的に言えない子を責めるのはお門違いだ。言えないだけの理由がある。発達度合いや学校での環境、家での生育歴、その児童さんなりの理由がなにかしらある。〇〇くんはちゃんとできるのに、〇〇ちゃんみたいにやりなさいといった他人の子と比べる説教はもってのほか。

 この国の教育方針は、自由な表現や個性に対して余りにも視野が狭い傾向にある。好き嫌いに関わらず脳の構造上の理由で文章を読むことや文字を書くこと自体が極めて困難であるという子もいる。障害と言われることになるかもしれないが、それも個性なのだ。大切な我が子の個性を育てるにあたり、どうか理由のない「やりなさい」「いい子だね」でその子を潰すことのないように願うばかりである。


3-1. 効率的に書くために ~要点ポストイット


 本を選び、読み終わった。いよいよ書くぞ。しかしどう書けばいいのかわからない。それができないから困っている。

 本を通じて知った感情や感想、教訓を、いかに文章表現に落とし込むか。自分の頭の中を渦巻く様々な言葉の波から取捨選択をするのは難しい。ならばまずは、先生が求めていることを最低限、まとめてみよう。

 以下は少なくともこの中から3つくらいはおさえておきたい内容と、なぜ含める必要があるのかの理由である。ただしすべて私の個人的な考察と推測でしかない。学術的根拠はゼロだ。

この本のテーマは何?→先生や審査員は「あなたが何に対して興味を持つ人間なのか」を知りたい。選んだ本のテーマ=あなたとはどんな人か。

自分と似ているところがあるキャラクターは誰? どんなところが似ている?→自己投影の基本。そして、あなたが読書を楽しめたかどうか。この自己分析が出来ているかどうかを先生や審査員はいちばん見たい。どうか自己肯定を恐れず。将来の進学や面接で一番大事なところ。

かっこいいなと思ったorこんな風になりたいキャラクターは誰?→今後どう成長したいのか、将来への展望。

逆に自分とは違うor苦手なキャラクターは誰? そのキャラクターから学べたことは何?→反面教師や人生における試練から学ぶ思考力。

全体的な感想→要点をわかりやすく纏める純粋な文章力。

この本はどんな人の助けになりそう?→多面的な視野とプレゼン能力、人格の成熟度。最後に持ってくると締め括りやすいし余韻を残せる。

印象的だった文章やセリフ→これは曖昧だったり適当であってはいけない。かならず『本に出てきたその通りの文』として抜き出そう。ここの確認を怠けると、先生や審査員は「作者への敬意を軽んじる人間が書いた文章」「やる気のない課題」とみなす。しおりを挟んだりフセンを貼っておこう。

どうしてその文章やセリフが心に残ったのか→今の自分の人格形成における課題は何なのか、俯瞰的な自己分析力。

 おおまかにこういった内容さえ押さえておけば何とかなった。あとは、順序やそれぞれの行数は好みで前後上下する。そしてそこに個性が出る。さらに上級を目指すなら、

正反対だと思ったキャラクターは誰と誰? どこに対してそう思った?→比較系のテーマを軸にすると文章に深みを出しやすい。ただし小学生にはかなりハイレベルかもしれないし恐らく原稿用紙が規定枚数を大幅にオーバーするので、やるなら中学受験を目指す高学年かそれ以上の年齢向け。


3-2. なぜポストイット?


 先述した要点をそれぞれ文字に書き起こす最初の時点において、なるべくならば心がけてたいことがある。それは、読書感想文として書く時の順番を考えず、できれば項目ごとに独立した無地の紙に書くということだ。

 近年、グループワークにおいて多用される方法としてポストイットというものがある。まずはとにかくルールを設けずにテーマから連想するアイディアをひとつにつき一枚のフセンに書いていく。全員のアイディアがあらかた出尽くしてから初めて、ある程度のジャンルにまとめたり順序を決めていくというものだ。

 アイディアを出す、つまり脳内に渦巻く語彙を提示するという行為は、それだけに集中したほうがいい。そこに同時に「線の入ったノートを使い順番やテーマに則しているかどうかも含めてまとめていかなければ」という合理性は、ことアイディアを出す段階において最も邪魔になる。アイディアを出すならただアイディアを出す、順序を決めるなら順序に集中する、今回のテーマとの整合性を考えるなら整合性だけを判断する、といったように、ひとつひとつの本質ごとに思考を切り替えるほうが最終的には効率的なのだ。

 思考を整理するということは、優先順位を決めてひとつひとつ解決していくこと。「でもこういったことも同時に考えなければ」「この点にも目を向ける必要がある」という多面的な意識はたしかに大切だが、全ての人が常に思考を合理的に並列化できる訳ではない。それのせいで雁字搦めになってしまったり、あれもこれも気になっていちいち思考が停止し振り出しに戻ることをいたずらに繰り返してしまっては本末転倒だ。

 アイディアを出す時は線や点の入ったノートは使わない。ノートなら無地、できれば大きいフセンが望ましい。自由帳は「思考を自由に解放するための帳簿」だ。罫線ノートは「順序よくまとめて整理するためのもの」。用途を区別することで、出したアイディアを自由に並べ替えながら時に取捨選択し、目で考えることだけに集中できる。『遠回りしているようで実は本質を見失うリスクの少ない順序よく効率的な結果』へ辿りつく癖を身につけられるのだ。


3-3. 書き始めとタイトルを工夫する


 ここからは、より「読ませたい」人向けだ。小学生高学年以上向けかもしれない。

 ありきたりな文章とあまり見ない続きが気になる描写の文章、どちらが読み進めたくなるだろうか。

 繰り返すようだが、先生や審査員が読む作品数はなかなかのものだ。その中に埋もれるよりは、求心力のある文章に仕上げて印象付けるに越したことはない。

 文章の最初『起』と最後『結』で読者の心を掴めば、あとは『承転』の展開に引き込める。アニメやゲームで例えるなら、オープニングの映像や曲で作品の世界観や大体のあらすじがしっかり掴めていれば自ずと本編を追いたくなるものだ。横山光輝「バビル二世」のアニメオープニングを例にすると、主人公がロプロス・ポセイドン・ロデムという部下を従えており超能力を持った司令官であるという夢のある相関関係と世界観を歌詞が無駄なく説明し、曲調の疾走感がバトル漫画であることを示唆し、アニメーション映像ではシリアスな作風と上記部下達の個性豊かで頼もしくいかにも強そうな外見をほの暗い色彩で表現している。

 読書感想文の文章表現においても求心力まで備えられれば、より沢山の人の目に作文を楽しんでもらえる。読者の心を引き込む魅力は、全ての行に込める必要はない。最初と最後だけで充分な効果がある

「この本を読んだきっかけは~」→あなたの人となりや生育環境を知ることができる。たとえば『ドラマになるほどの人気作だからです』とかもいいが、『たくさんの人に親しまれる理由を知りたいと思ったからです』といったように先生や審査員がまさしく見たいものや作者への興味へ向かって少し掘り下げるだけで、読み手が受ける印象はかなり違う。言い回し次第で好印象を残しやすい、いわば「面接訓練」。

「この本は、誰がどこで〇〇する話です」→いかに要点をおさえて短くまとめられるか、純粋な文章力が試される。ただし、書き出しとしては定番オブ定番なので他の作品に埋もれないような魅力がなければ心に残らない。これだけを広げて最後ちょろっと締めくくればいいやという風に書いて提出し呆気なくボツになり頭を抱える人が多い気がする。ただのレビューに収まらない工夫が必要。

「この本にでてくる〇〇は~」→登場人物の誰を据えるかで『承』と『転』の広げ方が無限大。先述したかっこいいと思ったキャラクターや自分と似ているキャラクター、苦手なキャラクターなど誰の表記で始めるのかであなたの性格が出る。感受性の高い子や感情移入しやすい子が使うと書きやすいかもしれない。

・先述した比較系テーマを書き出しに持ってくる大胆な例「家族に対して、ふたつのタイプがいると思う。主人公〇〇のように捨てられてもいつか会えるはずだと信じる明るくてやさしい子か、敵である●●のように自分を捨てたすべてをうらみながら一人さびしく生きる子だ。」→掴みの癖が強いので二度見が期待できる。本自体のテーマを掘り下げるところから始まるので、自己投影や自己分析の要点を展開しやすい。一方で内容が壮大になりがちで締めくくりが難しい。中学生以上、下手したら大学受験や就職試験の小論文向きかも。これを小学生で書いて少ない原稿用紙制限の中でちゃんと締められたら、よほどの本好きと思われる。


3-3. 書くのに詰まったら


 主語を「わたしは」「ぼくは」にすると筆が止まりやすい。そのうえ自己顕示ばかりが先走り承認欲求が強いという印象すら与えてしまう。なるべく避けたほうが書きやすい。

 主語は、可能な限り自分ではないものにしよう。あくまでも一例だが、「〇〇(キャラクターの名前)は~」や、「このシーンでは~」「ぼく(わたし)にとって〇〇は~」など。自分以外のものを主語にして書き始めるように心がければ、文章を広げやすくなる。主語に自分をおくのをポイント使いにすることで、マンネリ感が抑えられるはずだ。

 そしてもうひとつ。「おもしろかった」は使わない。作文においてこの単語ほど文章表現の多彩さと可能性を潰すものはない。つまり、「おもしろい」のバリエーションさえ増やせば文字数など敵にはならないのだ。

 たとえば、作文に煮詰まった児童さんを保護者さんが手助けする必要があるとき、児童さんが「おもしろかった」しか書けない現状に悩むこともあろう。その「おもしろさ」の具体性を言葉として噛み砕き、汎用性の高さに頼らないピンポイント表現にする技術を学ぶのが作文の目的なのである。「どこのシーンがおもしろかった?」「おもしろかったのはどうしてだと思う?」「それと同じ経験はある?」など、「おもしろかった」の正体に児童さんが自ら気付けるように質問を掘り下げなければ周りが協力する意味がない。

 たとえば、小公女を読んだ子が「最後にお嬢様に戻った場面がおもしろかった」と書いたとしたらどうだろう。「意地悪な学園長にはっきり言い返してかっこよかった、スカッとした」にも「私もこんな風に最後の最後まで誇りと親への愛を忘れないひとでありたいと憧れた」にもなる。大きなかぶなら?「かぶが抜けておもしろかった」は「抜けたかぶが思っていたよりもずっと大きすぎて、僕なら友達が何人いても抜けないと思ったからつい笑ってしまった」であるかもしれないし、「かぶを抜くためにこんなにたくさんの仲間たちにいっしょうけんめい助けてもらえたのだと思い心があたたかくなった」の可能性もある。

 「おもしろい」は普段の会話で使うのにはとても便利で楽な言葉だが、文章表現にはふさわしくない。目で読むには実に意味合いが曖昧で、ありきたりすぎる魅力ゼロの単語である。作文において「おもしろい」は可能な限り使うべきではない。先生や審査員は「あなたが感じたそのおもしろさの本質」こそを知りたいのだから。

 「おもしろい」だけではない。「親友に誤解されたシーンが悲しかった」ならば「ぼくが同じことになったら勝手に決めつけずにちゃんと話を聞くべきだと思う」、「魔女が村人と踊るところが楽しい」は「ずっと一人ぼっちだった魔女にやっと友達ができて嬉しかった」など。自分に生まれる感情の正体に気付くことができたら、どんな形容詞だって無限の可能性に変えていける。こと作文において直接的で曖昧な感情表現を噛み砕く必要性が、わかって頂けただろうか。


おわりに


 長々と偉そうに書いてきたが、この記事は決して「読書感想文はこう書けば誰もが絶対に成功する!」といったノウハウではない。私が小~中学生時代において時々あたってしまったノーヒント主義クソ教諭との仁義なき読書感想文の戦いからどうにかこうにか学んだ「私の場合はこんな感じで切り抜けた」経験の備忘録である。

 最初に書いた通りだ。読書感想文を辛いものと思っていたり、読書感想文がきっかけで本を読むこと自体を楽しいと感じられなくなってしまった人に、本を読むことや書籍自体には何の罪もないことを今一度知って欲しかった。

 文章を書くということが辛くて仕方ない人の辛い理由が「レシピがないのに評価や指摘だけが厳しい理不尽な調理実習」のような記憶にあるなら、その記憶に寄り添えることを願う。

 何度でも言う。書籍にも読書感想文という慣習自体にも本来ならば本離れの罪はない。優劣をつけるルールや、ヒント皆無で児童を達成感へ導かずただ合格点に達していない不出来さを指摘し続ける軍事的な根性論主義の在り方に問題があるだけだ。

 知識と教養は、誰にも干渉できないその人だけの宝だ。その宝が壁いっぱいに詰まった図書室へ好きな本を無料で読むために通うことを「オタク」「ぼっち」と嘲る文化は、そろそろ廃れてくれただろうか。

 今の時代の図書室が、堂々とあずかっていい「娯楽に没頭する権利」を人の目を気にせず掴む児童達の活気と笑顔に溢れていることを願うばかりだ。

 コロナ禍にあって厳しいかもしれない。そんな苦しい家計にある児童にも平等に与えられている娯楽と教養の権利が「図書室」だ。図書なのだ。ページを開けばどこにだって無料で旅行ができるんだ。いつだって新しい自分になれるんだ。

 協調性のない感覚主義の私は今で言う不思議ちゃんと呼ばれるような児童だった。そんな私が周りとの異質さに苦しむとき、図書室から借りた本たちが私に寄り添ってくれていた。初めて作ったお菓子はクッキーで、レシピは小学校の図書館から借りたこまったさんのシリーズだった。初めて読んで衝撃を受けのめり込んだ異世界トリップ作品は、図書室で読んだかの名書「火星のプリンセス」。上の棚にあったタイトルの異質さと書籍そのものの重厚な存在感に惹かれたものの直感で今の私にはまだ理解できない崇高な作品だと察し、大人になったら絶対に読むぞと決意した「あゝ無情」。

 漫画はいい。アニメもドラマも映画もゲームも動画サイトも素晴らしい。ハンドメイドも園芸も家庭菜園もショッピングも雑誌を読むのもその他様々な趣味が地球には何だってある。

 小説もいいぞ、文学もいいぞと声を上げたい。文字しかなくて絵が少ないから敬遠するかもしれないけれど。

 文字だけを追いかけ頭がパンクする寸前まで活字の氾濫に溺れる感覚も、存外いいものだぞ。






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