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育成出身 国吉佑樹

92 国吉佑樹とは?

中学生時代には、ボーイズリーグでアマチュア球界の大御所・鍛治舎巧氏が監督を務める「オール枚方」に所属していました。熊本県の秀岳館高校へ進学すると、2年時の春から控え投手としてベンチ入りします。2年時の冬には、ストレートの球速が140km/hを上回るようになりました。しかし、在学中には春夏とも、甲子園球場の全国大会に出場できませんでした。09年の育成ドラフト1位でベイスターズに指名されます。10年には、右肩痛を発症した影響で、イースタン・リーグ公式戦5試合の登板にとどまりました。このため、シーズン終了後には、下半身を重視したトレーニングで投球フォームの改善に取り組みました。11年には、全身を使った投球フォームへ変更したことによって、ストレートの最高球速が152km/hにまで上昇。7月29日付で支配下選手契約へ移行しました。8月27日の対中日ドラゴンズ戦で、先発投手として一軍公式戦にデビュー。10月4日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)でも先発すると、7回を自責点0(失点1)に抑える好投で、一軍公式戦での初勝利を挙げました。DeNA初年度の12年は開幕一軍入りを果たすと、本拠地・横浜スタジアムでの開幕戦であった4月5日の対中日戦に先発投手としてシーズン初登板しました。5月6日の同カードで、中日の山本昌との「(当時のNPB公式戦における)史上最大年齢(26歳1ヶ月)差での先発対決」を制した末に、シーズン初勝利を挙げました。9月7日の対広島東洋カープ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)では、セントラル・リーグの球団に育成選手として入団した投手では初めて、一軍公式戦での完封勝利を記録しました。一軍公式戦全体では19試合に登板したが、シーズン初登板から先発で3連敗を喫するなど、4勝12敗と大きく負け越しました。13年は故障もあり3試合の登板で終わります。14年は一軍公式戦全体では、49試合に登板。先発登板時の防御率が7.11だったのに対して、救援登板時の防御率は2.54と安定していました。15年にはもっぱらロングリリーフで一軍公式戦28試合に登板しました。シーズン終了後の秋季キャンプでは、「自分には打者を絶対に抑えられるような変化球を投げられないので、長いイニングを投げた方が持ち味が出る」として、一軍監督へ就任したばかりのラミレスに先発への復帰を直訴しました。16年は先発復帰しましたが1試合の登板で終わりました。17年は国吉はレギュラーシーズンで一軍公式戦4試合に登板しただけで、ポストシーズンの試合には登板機会がありませんでした。シーズン終了後には、二軍投手コーチとしてチームに復帰した元メジャーリーガーの大家友和からカットボールやツーシームの投げ方を教わるなど、投球の幅を広げることに努めました。18年にはカットボールを新たな武器にしたものの13試合の登板で未勝利に終わりました。シーズン終了後には、この年に球団が業務提携を結んだばかりのキャンベラ・キャバルリー(オーストラリアン・ベースボールリーグの強豪チーム)で腕を磨きました。19年にはオープン戦で自己最高球速を159km/hまで更新します。公式戦では最速161km/hを記録するなどして、パットンに代わってセットアッパーを担ったり、キャリアハイの53試合に登板。防御率は4.80と芳しくなかったが、自己最多の5勝をあげました。

長身右腕

196cmの長身でスリークォーターの投球フォームから、最速161km/hのストレートや、スライダー・カーブ・フォーク・カットボール・ツーシームなどの変化球を駆使します。入団当初は体に弱さがありましたが、筋力トレーニング入団後スピードが20km/h以上UPしています。コントロールに課題があるため、ストライクゾーンを意識する投球が課題のまま10年が過ぎた。

92

国吉は支配下登録されてからずっと65の背番号でしたが、自らの愛称「クニ」と同じ92に背番号を変えました。これで90番台の投手は国吉、中川、笠井と全員育成指名となりました。

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