男・村田

大学NO1打者だった村田修一とは?

2002年松坂世代といわれる高校球児が大学4年となりドラフトの目玉になりました。打者では日大村田、投手では早大和田、立大多田野、九州共立大新垣といったところが自由枠候補として各球団獲得合戦となりました。ベイスターズは東海大出身の長谷川スカウトが東海大の久保投手をマークし自由枠有力と言われました。02年は各球団に日本代表候補の選手がキャンプ派遣を行っており、ベイスターズには村田選手が参加しておりました。森監督時代のシステマティックなキャンプに参加した村田選手、巨人有力と周囲には思われていました。担当の中塚スカウトは下級生の頃から村田選手を見守っていましたが、獲得のキーマンへのアプローチが難しかったのです。風向きが変わったのはアマチュア球界で神様のような存在である法大山中監督がベイスターズのGM的存在として入団したことでした。久保裕也投手を自由枠で獲得するというスカウト方針を撤回し、大学NO1打者村田、NO1投手和田を獲得する方針を決め、キーマン懐柔を山中氏が務めました。和田投手はソフトバンクとの約束撤回が難しい状況にあり、狙いはすぐに右腕NO1の立大多田野投手へ。こちらは立大OBの稲川スカウトが元々通っていたことも幸いし自由枠獲得が行けそうになります。もちろん村田選手も中塚スカウトの熱意と共にキーマン懐柔に成功し自由枠獲得が見込めるようになりました。この出来事で大学4年春にはベイスターズ入りが決まりかけていた東海大久保投手獲得を断念せざるを得なくなり、担当の長谷川スカウトはチームを去ります。その後多田野投手は諸事情あり指名見合わせとなりましたが、ロッテが自由枠獲得意向だった法大土居投手を自由枠で指名することになりました。村田選手は98年古木、99年田中、00年内川という高卒野手ドラフト1位と共に常勝チームの中核として期待されベイスターズに入団しました。入団1年目には同じ松坂世代の古木が三塁手で22ホーマー放った活躍をしたこともあり、当初二塁を守りました。1年目に背番号と同じ25本塁打放ち、古木と共にFM砲として期待されました。2年目はまだレギュラーという感じではなく内川、種田と三塁を争っていました。3年目からは三塁のレギュラーとして活躍。4年目には初の30本塁打超、4番打者となりました。5年目からは2年連続本塁打王です。08年にはラミレスとの激しい本塁打王争いに勝ち球団新記録の46本も本塁打を打ちました。09年はWBCの日本代表に選ばれますが、ここで故障をし、このシーズンは規定打席に到達しませんでした。故障の影響か09年以降30本塁打を超えることはありませんでした。10年オフにはFA権を獲得しますが、内川がFAでベイスターズを出る可能性が高く、村田選手はFA宣言しませんでした。11年オフにFA宣言して巨人入団をします。巨人ではベイスターズ時代に経験のない優勝争いの中で12,13,16年ベストナイン、13,14,16年ゴールデングラブ賞という守備面を含めた安定したプレイヤーとしてチームの勝利に貢献します。ベストナイン、ゴールデングラブを獲得した16年の翌年17年はマギーに三塁のレギュラーを譲り、最後には100安打まで放つも自由契約になりました。獲得球団が現れずBC栃木でプレーし18年オフに退団しました。

村田軍団

村田選手は後輩たちの面倒見がよく自主トレなどの費用を後輩分まで負担して、海外などで練習することが多かったのです。ベイスターズ時代若手選手から慕われており、そういった選手の一部がミーティングで監督の話を聞かない、練習をサボる、早出の練習をして努力している石川選手をバカにして「首脳陣に媚びを売ってレギュラーを取った男」と吹聴するなどのことが起きて、チームの風紀が乱れた原因が村田選手に押し付けられた時代もあります。しかし、村田選手はまじめにチームのことを考えており、ベイスターズ最終年にはキャプテンととしてチームを引っ張りました。ただ村田選手の思いとは別にフロントも首脳陣も選手達も方向性がバラバラであり、チームのムードを変えることはできませんでした。ファンもまた風紀の悪さに便乗して石川のことを未だに悪く言ったり、横浜高校OB選手をバカにしたりしています。こういうムードを断つために村田選手自らチームを去った可能性もあり、ベイスターズファンのふりをして選手や首脳陣の悪口だけをSNSなどで書き残し、チームをダメにするファンのお陰で巨人黄金時代が生まれたともいえます。

村田監督は?

17年オフに村田選手が自由契約になった時、ベイスターズが村田獲得に乗り出すのでは?とも思われました。三塁には宮崎がレギュラーとして定着したこともあり、村田選手にレギュラー保証できないことでフロントが獲得を躊躇したこと、村田選手自身も自分がベイスターズに戻ることで日本シリーズ進出したチームに波風が立たないか配慮したことなどのあうんの呼吸が村田ベイスターズ復帰を実現させませんでした。何よりキャプテン筒香が村田の象徴であった背番号25で主砲として存在しているのです。村田を迎え入れる状態にチームもなかったのでしょう。ただし巨人で指導者としてのキャリアを踏み出している村田氏ですから、将来チャンスがあるとすれば監督候補として招聘することもトライして欲しいです。


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