The Long Goodbye(長いお別れ)
一章 ウチヤマ
僕が横須賀のショットバーでバーテンダーのバイトをしていたのが21歳の時だから、それくらい昔の話だ。まだスマホもMacbookもない。
A long time ago in a galaxy far, far away....(遠い昔、遥か彼方の銀河系で...)
あるいは
昔々あるところに、お爺さんとお婆さんがいました。
それ位、遠く古い話だ。
その男は、葬式の帰り道には必ずバーを訪れた。京急電鉄の横須賀中央駅東口を出て、3分程度の裏路地にある通いやすいと言っていいショットバーだが、その日、平日の夕方6時にいる客なんてその男くらいだった。
「いいヤツだったんだよ。」
その男はウチヤマといった。このバーに来るのは確か3回目だ。葬式があると、その帰りにウチのバーに立ち寄り、クバ・リブレ(キューバ・リブレ)をしこたま呑んで帰っていく。
「死んだ人は、皆いい人です。」
ウチヤマはフッと笑い、クバ・リブレを飲み干す。僕はライムをカットすると、絞りながら氷の入ったグラスに落とした。ホワイトラムを目分量でグラスに注ぎ、コーラを入れた。左手でマドラーを添える。ウチヤマの前にある空になったグラスと入れ替える。
「たしかにな。ここ数年、立て続けに身近な友人が死んだ。いや親友と言ってもいい。みんないいヤツだった。それが、一昨年は交通事故。去年はガン。今回は自殺だ。死神の野郎、何を張り切って仕事してやがるんだか。」
ウチヤマはグラスをグイッと傾けて一気に1/3くらい飲み干すと、(今は亡き)マイルド・セブンに火を付け、大きなため息をついた。店のBOSEのスピーカーから、小さな音でジャニス・ジョプリンの『Move Over』が聴こえていた。
「親しい友人の、まだ若いのに死んだ葬式なんて、出るもんじゃないぜ。バーテンの兄ちゃん。アンタまだ学生だろ。親友の葬式に出たことあるか?」
高校生の時、同級生が白血病で亡くなった時の事を思い出したが、黙っている事にした。言っても誰も得をしない。
「母親がな。息子の亡骸にすがって、泣くんだよ。もう、そういうの見ちゃうとな。親より先に死ぬのは親不孝ってもんだ。」
ウチヤマは涙ぐんでいるようだった。良い人なんだろう。僕は気の毒に、という表情をして、グラスを洗っていた。バーテンダーをしていると、表情だけで相手に感情を伝える術を何通りも習得する事になる。僕は20通りほど、表情を学習し身に付けていた。
「それでな、死者への手向けとしてオレは葬式の帰りに、毎回ここで目一杯、キューバ・リブレを呑んでやるのさ。もう、酒を呑む事も出来なくなった親友の代わりにな。」
「お優しいのですね。」
は!とウチヤマは笑った。
「優しいもんか!嫁も子供もいて、仕事も立派にやってた奴らが死んで、おっさんにもなってカノジョもいない、仕事も適当。そんなオレだけが生き残って、酒呑んでんだ。本当に優しいんなら、とっくに改心して真面目に生きてるさ。」
「でも、死んだ方に対して、何かをしてあげられるって、結構すごい事だと思うんです。死んだ方は、もう何も、文句も言えないんですからね。」
ウチヤマは少し考えるような素振りをし、短くなったマイルド・セブンを消すと鼻を鳴らした。
「...そうかも知れねぇな。」
「お優しいと思いますよ。」
へへっとウチヤマは笑い、僕もニッコリ笑いかけた。
「なぁ兄ちゃん。バーテンなんだろ?死者に手向けるような酒とかカクテルとか知らないか?」
僕は少し考え込んだ。
「ちょっと趣旨とは違うかも知れませんが、コープス・リバイバーってカクテルがあったと思います。」
「どういう意味だ?」
「Corpse Reviver。死者を蘇らせるもの、でしょうか。」
ふーんとウチヤマは言い、じゃあそれくれ、と注文した。
僕は、手元にあるカクテルブックを開き、レシピを確認した。バーテンダーが全てのカクテルのレシピを覚えている訳では無い。「良いバーテンダーとは...」師匠の教えだ。「たくさんのレシピを覚えている者ではない。分からなかったら調べ、正しいレシピで作れる者の事だ。調べる事は恥ずかしい事ではない。」
レシピ通り、ブランデー1/2、カルヴァドス1/4、スイート・ベルモット1/4を計量カップで氷の入ったミキシンググラスに注ぎ、ステアした。カクテルグラスに氷が入らないように注ぎ、レモンピールを絞ると、ウチヤマの前に差し出した。
「...どうぞ。」
ウチヤマは、一口飲む。
「...結構強いな。」
「そうですね。ブランデーベースで、それにリンゴのブランデーとスパイスワインで割ったものですから。ブランデーはアルコール度数40〜50度ありますし、ベルモットだって15度くらいはあるんですよ。」
「アルコールが強くて、死者もビックリして起き上がる、って意味なのかもな。」
「そうかも知れません。」僕たちは少し笑った。
「...じゃあ、ガラでもないが。死んだヤツラに。」
ウチヤマは、グラスを目の高さまであげた。僕は氷水の入ったグラスを手にとった。僕たちはグラスを少しあげ、死者達に哀悼を捧げた。
二章 キョウコ
キョウコさんとの会話が、そこまで進んだのはその日がはじめてだった。
バーの近くにあるキャバクラで週に2日働いているキョウコさんは、お店の終わりに同僚の女の子とバーに寄り、お客の愚痴を吐き出してから帰っていく。その日は一人で、珍しくお客の愚痴も吐いていなかった。カシスソーダも飲みすぎていない。
「ねぇ、コウちゃんって、大学生なんだっけ?何歳だっけ?」
一番奥のいつもの席に座ったキョウコさんが頬杖をつきながら聞いてきた。
「そうですね。横浜方面で大学生やってます。7月で21歳になりました。」
「そっか。コウちゃんって私より、いっこお兄ちゃんなんだね。」
キョウコさんはニッコリ笑った。僕もグラスを拭きながらニッコリ笑ってみせた。何を考えているのか、まるで分からなかった。
「...ねぇ。大学って、楽しい?」
僕は驚いた顔を見せた。僕とキョウコさんの間には、これまで愚痴と冗談しか無かったからだ。グラスを拭く手を止めて、少し考えて答えた。
「そうですね。授業の殆どは、何の役にも立ちそうもない。部活やサークルは、くだらないヤツが威張っている。でも、自分が興味ある事を勉強するのは楽しいですし、たまには良い人もいます。」
キョウコさんは、まっすぐこちらを見ている。誤魔化しきれそうもない。女の人は、皆こういう能力を持っているのだろうか。
「将来、やりたい仕事がある訳じゃない。お金が沢山欲しい訳でもない。何者になれるのか全く分からない。こうしてバーテンダーとして働いている方が大学より何倍も面白いし、勉強にもなります。このお店のオーナー、師匠から学ぶ事は、とても多いんです。」
「...私もいるし?」僕たちはクスッと笑った。
「キョウコさんもいますし。でも、好きな事をして生きていたら必ず代償みたいなものは払わないといけないと思うんです。それが何なのか、僕にはまだ分かりません。大学を卒業する時になったら、そのツケみたいなものを払うのかも知れない。大学に行くっていうのは、借金をしてお酒を呑んでいるようなものなんじゃないかって思う時があります。」
キョウコさんは、目を瞑って少し考えているようだった。
「...あの人とは、全然違うことを言うのね。」
「あの人?」
「うん。今付き合っている人。お店に何回か来てくれてた人なんだけどね。歳は6つくらい上なんだけど。」
付き合っている人はいるんだろうな、とは思っていた。それでも、僕は少しだけ(本当に少しだけ)胸が締め付けられるような気がした。キョウコさんはカシスソーダのおかわりを注文した。クリーム・ド・カシスを氷の入ったタンブラーに注ぎ、ウィルキンソンのソーダを入れる。もしかしたら、ソーダ水を持つ手が震えたかも知れない。手の震えをキョウコさんに気付かれないように、慎重にコースターとグラスを交換した。スピーカーからはサラ・ヴォーンの『Tenderly』が小さな音で流れている。
「そいつがね、私のこと高卒ってすごく馬鹿にするの。人生で大切な事は大体大学で教わったって。だから、お前も勉強しなおして、どこでもいいから大学行けって。学費は出してやるからって。」
「なんですかそれ...」僕は呆れたような声を出す。
「彼氏はね、大学が本当に楽しかったみたいね。だから、悪気があって言ってるんじゃないんだろうなとは思うのよ。だからね、悪い話じゃないし、楽しいんなら近くの女子大を受けてみようかなって少しだけ悩んでたの。こう見えても、勉強は出来る方だったし。」
キョウコさんはカシスソーダを一口飲んだ。僕も、氷水を一口飲む。スツールの下で、キョウコさんは脚を組み替えた。
「でも、コウちゃんの話聞いたら、そんな大切な事じゃないような気がしてきたわ。もう少し自分のアタマで考えてみる。」
「はい...でも、僕の話はあまり信用しないでくださいね。僕は生まれつきネクラだし、物事を悪く考えすぎる癖があるんです。」
なあに生まれつきネクラって、といってキョウコさんは笑った。キョウコさんの笑顔は、誰からも愛されるような愛嬌があった。
「大丈夫よ、コウちゃんのせいになんかしない。自分の人生ですものね。自分で選んで、自分で責任を取ります。今までそうして生きてきたし、これからもそうする。」
「ありがとうございます。」
僕たちはニッコリ笑い合った。
「ねぇ、お礼に、一杯奢らせて。何か飲んでよ。」
お断りしたが、それでもキョウコさんが押してくるので、承知した。
「じゃあ、同じものをいただきます。ありがとうございます。」
カシスソーダを(少しだけ)薄めに作り、タンブラーを手にとってキョウコさんの正面に立った。ほんの数秒、見つめ合った気がした。僕には長すぎる時間だったように思う。
「何に乾杯しますか?」僕は聞いた。
「うーん...そうだなぁ。私たちの友情について?」
「いいですね。」
僕たちはタンブラーを少しだけ合わせ、カシスソーダを一口飲んだ。カシスソーダの味はいつも通り少しだけ苦かった。
お気持ち程度いただければ、私がビアを飲めます。