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勝てなくても負けなかったかもしれない。もう一つの太平洋戦争

今日は8月15日。
一般に太平洋戦争の終戦記念日として知られていますが、日本がポツダム宣言を受託したことを連合国に通知したのが8月14日、戦艦ミズーリ上で降伏文書に署名し、正式に降伏したのが9月2日のことです。
8月15日以降も占守島の攻防で知られるように一部では激しい戦闘は続いていましたし、日本本土への爆撃さえ一部では継続されていました。
しかし日本人にとってはやはり8月15日玉音放送があったこの日が終戦の日として認知されているのは、条約や形式ではなく、心情として戦争の惨禍と何より亡くなられた人たちに想いを寄せ、祈りと慰霊の日として日本人の心に定着したのだと思います。

さて、この時期になると必ず問われるのは、なぜ日本は無謀とも言える戦争に踏み切ったのか、という問いでしょう。
後世の後知恵からすると、どう考えても勝てない戦いをしようとしたのは政府や軍指導部が愚かで、狂人であったから、といった些か非合理的な説明をしたくなりますが、もちろんそんなことはありません。
当時の日本が置かれていた政治的、経済的な理由については以前のnoteをご覧いただくとして、戦争で最も大事な”勝つための戦略”についても、当時の日本の首脳陣とて決して考えていなかったわけではありません。
むしろ何年にもわたって考え、綿密なシミュレーションを重ねていたのです。
ではそれは一体どのようなものだったのでしょうか?

(参考)今日は真珠湾攻撃の日 で、なぜ日本はアメリカと戦争をしたの?

戦前最高のシンクタンク「秋丸機関」


その謎を解く答えの一つが、陸軍省直轄のシンクタンク、戦争経済研究班(通称秋丸機関)の報告にあります。
第一次世界大戦の戦訓から来るべき戦争は国家総力戦になることは自明の理とされていたものの、ソ連の戦車部隊に手痛い敗北を喫したノモンハン事件によって戦車や航空機を製造するための経済力と国家の総合戦力はほぼ正比例の関係にあることが強く認識されるようになりました。
そこで1939年9月、陸軍の諜報部門のトップであった軍務局軍事課長の岩畔豪雄大佐は、満洲国の経済政策で辣腕を奮っていた秋丸次朗主計中佐らに「米英ら仮想敵国の経済戦力を詳細に分析して、その弱点を把握すると共に、日本の経済戦力の持久度を見極めて攻防の策を講ずる」為の研究機関の設立を命じたのです。
これが戦争経済研究班、通称秋丸機関です。

秋丸機関には統計学の権威である有沢広巳を始め、武村忠雄、中山伊知郎、宮川実など学派の違いを超えて、当時の日本のトップクラスの経済学者が集められました。又政治学者の蝋山政道らをはじめとした国際政治のエキスパート、更に各省のエリート官僚や当時世界最高の調査機関の一つであった満鉄調査部の精鋭も加わりました。
正に当時考えうる最高のシンクタンクだったのです。
(余談ですが秋丸機関の研究が戦後の傾斜生産方式などの戦後復興に役立ったという説もあります)

「数学的研究の教訓」ハ対米戦争は不可ナリ

1940年冬、秋丸機関はその研究結果について陸軍省に最初の報告を行いました。
それは日本とアメリカの経済力差はほぼ1対20で、対ソ戦を回避すれば2年以内に限れば南方での作戦行動は可能なものの、物的な国力は初年度で75%〜80%に低下し、2年目には65%程度に減少し、それ以上経済的に継戦を続けることは不可能である、というものだったと言われています。
この報告を受け、陸海軍統帥部は1941年6月6日に「武力南進はしたくてもできないことが数字的研究の教訓として確認された」として対米戦に備えて更なる国力の増強するという「対南方政策要綱」を決定しました。

ここまでは非常に常識的で、理にかなった結論のように見えますね。
しかし歴史はこの後全く異なる方向に動いていきます。
では何故この後、日本は我々の知る一見非論理的に見える戦争へと進んでいったのでしょうか?
その鍵は1941年7月に行われた南仏印(ベトナム南部)への進駐にあります。

追い詰められた日本


当時のベトナムはフランスの植民地でしたが、フランスがドイツに降伏した為その維持が難しくなっていました。
中国と戦争を続けていた日本は、中国への物資供給ルートを遮断する目的もあり、フランスの窮状に付け込む形で南方に勢力を広げようとしたのですが、この行為がアメリカの逆鱗に触れました。
実はアメリカは南仏印に進駐したら、日本にはもう石油を輸出しないと再三警告していたのです。
当時の日本は石油の76%をアメリカからの輸入に頼っていました。もし本当に禁輸されたら戦争どころか日本経済自体が壊滅的な大打撃を被ります。
しかも近代産業に欠かせない鉄鉱石も70%がアメリカからの輸入で、工場でモノを造る為の工作機械の多くも輸入品で、ドイツをのぞけば大半がアメリカ製でした。
つまり当時の日本は現代では想像もできないほどアメリカに依存していたのです。
仮想敵国に経済を全面的に依存している時点で、もう最初からダメな気もしますが、日本も日本で、まさかアメリカもそこまではやってこないだろうとタカをくくっていました。
しかしその期待虚しく1941年8月、遂にアメリカは対日石油禁輸(ほぼ同時期に鉄鉱石や機械の輸出も禁輸となった)処置を発動したのです。
このままではいずれ日本は経済的に破滅することは日の目を見るより明らかです。自らの無策が招いたこととはいえ、追い詰められた無資源国日本は一か八かの戦争に踏み切らざるを得なくなったのです。

たった一つの勝利へのシナリオ

当時の日米の国力差が1対20ということを考えた時、国力の差が戦力の絶対的な差となる国家総力戦では、日本には全く勝ち目がないように見えます。
それは正にその通りなのですが、戦争とは詰まるところ外交の延長であり、自国に有利な外交的状況を作り出せれば、戦力差で劣っていても戦略的に見れば勝利、あるいは負けなかったという状況を作り出すことができることは歴史が証明しています。
そしてここに日本が付け入ることのできる唯一の間隙があります。

その間隙とは、この戦争の主役は元々日米ではなく、独英であるということに他なりません。
当時のアメリカは第一次世界大戦の反動からモンロー主義的な気分が国民に蔓延しており、開戦直前のギャラップ社の調査でもヨーロッパの戦いに介入すべきという意見は5%弱しかなかったそうです。
つまりドイツが速やかにイギリスを降伏させれば、元々国民が戦争に乗り気ではないアメリカは戦争の大義名分を失い、講和に応じる可能性が出てくるということなのです。
因みに秋丸機関はこの間日本が国力を維持できる期間、つまりイギリスを屈服させアメリカを講和に引っ張り出すまでのタイムリミットは2年間あまりと計算していました。

具体的にはこうです。
まずイギリスについては、その軍事力と国力を維持するためには57億5000ドルの供給力が不足してると計算しており、単独での戦争遂行は不可能だと計算していました。
しかしここにアメリカが加わると事情は一変します。仮にアメリカの国力の60%が軍事力に転換されるとした場合、開戦僅か1年、遅くとも1年半で138億ドルもの余剰供給力が生まれます。これはイギリスの不足分を補っても十分あまりある物量で、それまでにイギリスを倒さなければドイツの勝利は絶望的なものとなります。

ではドイツの方はどうでしょうか?
日本中がドイツの破竹の進撃に幻惑されている中、秋丸機関は非常に冷静にドイツの国力を捉えていました。
彼らの計算ではドイツの戦争遂行能力はほぼ限界に達しており、特に資源不足と食料不足が深刻で、来年には下降を始めることを見抜いていました。
ドイツの戦争遂行能力を維持する方法はただ一つ。短期間でソ連を倒し、その資源と労働力、具体的にはバクー油田の石油やウクライナの食料、占領地の生産力を転嫁することです。
因みにイタリアについては既に戦争遂行力は低下していると歯牙にもかけていません。
つまり秋丸機関の結論とは、ドイツが短期間でソ連を倒すことが、戦争の大勢を決する要素であり、それができなかった場合1年から1年半で英米の戦力がドイツを上回り、勝利は絶望的なものとなるというものだったのです。

このシナリオで日本ができることはドイツの勝利にむけアシストすることと、アメリカとの長期戦に備え日本自体の継戦能力を高める以外ありません。
つまり東南アジアに広がるイギリスの植民地を占領してイギリスに消耗戦を強いる一方、その資源を獲得することで日本自身の経済力を高め、なるだけ国力を消耗するアメリカとの全面衝突を避ける。
そして、もしドイツが守備よくスエズ運河を占領した暁にはドイツで不足しているタングステン、錫、ゴム、植物油などを供給することで、ドイツの勝利を後押しするという作戦だったのです。

実はこの方針は伝統的な日本の対米戦略とかなり合致しており、当時の日本ではかなりメインストリームに近い考え方だった可能性があります。
戦後石原莞爾は太平洋戦争の戦略として以下のような作戦プランを挙げていますが、これは秋丸機関の研究を踏まえ、当時の陸軍を中心に広く認識されていたものだったと思われます。

1)ソ連との直接対立を避け、背後を安定させる
2)主敵をイギリスに定め、緒戦でインドネシア、マレー半島を手中に収めて継戦に必要な資源を確保する
3)東南アジア、インド方向に侵攻し、援蒋ルートを遮断して蒋政権を屈服させ、戦線から脱落させる。
4)東南アジア各地の欧米植民地を独立させ、同盟国を増やし、自存自衛の戦いを支援する
5)最強の敵であるアメリカとは極力戦わず、漸次消耗させながら、できるだけ補給が可能な防衛圏にひきづり込んで戦う
6)その間にドイツと挟撃してイギリスを降伏させ、イギリスの仲介でアメリカとの講和を目指す

あとの展開から見て、アメリカの建艦能力をやや低く見ていたことを除けば、秋丸機関の報告は当時の各国の国力や経済力を正確に把握しており、勝てずとも、最大の条件で講和に持ち込むための戦略としてはかなり優れたものだったと言えます。

IFの世界はあり得たか?


しかし現実にはこの策は採用されませんでした。
どうせ2年しか持たないのなら、そして2年間は充分戦えるだけの戦力があるのなら、消極的なアシストではなく開戦の第一撃でアメリカの主力戦力を叩き、有利な条件で講和を目指すという考えも、又十分に成立し得るからです。
例えそれが経済的な破滅を早める道だったとしても、戦争は経済のみで決まるものではないのもまた事実です。
短期的な勝利が兵や国民の士気、国際政治上に与える影響も無視できない要素だからです。
これが海軍が提唱した作戦、つまり真珠湾攻撃が採用されることとなった理由です。

どのみち史実ではドイツは短期間でソ連を屈服させることに失敗し、正に秋丸機関の計算通りの形で敗北したので、結局どちらの案を採用したとしても最終的に日本に勝機はなかったという結論には何らの変わりはなかったのかもしれません。
歴史にIFを問うことは無意味なことですが、それでも秋丸機関の報告をベースにより現実的な案が採用されていたとしたなら、太平洋戦争の様相は全く違うものになっていたかもしれませんね。

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