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『ごめん。そのままだと落とすけど、どうする?』『お前が落ちろ、バカ。』

面接というのはだいたい億劫なものである。相手が何を意図して何を話しているのかも分からず、「実はこういうのが知りたかった」という完全な自己満足の世界でとんちを効かせればいいのか、いけないのか。そんな質問を繰り広げてくる。

私は長期インターンの面談において、担当の人に「得意なことと好きなことは違うよね」と言われて面を食らった思い出がある。

私にとって、得意なこと=好きを考える間も無く続けていけるもの、つまり“好きであって当然のもの”であり、“一過性の興味”とやらで好きなものを定義していなかったので、得意なことと好きなことが違うという意味が全く理解できなかった。

しかし、彼にとってどうやら得意なもの=好きなものであったらしく、話を聞く限りには、ほとんどのベンチャーやスタートアップ企業ではそういった定義をしているらしかった。

そのような定義で社会が回っているのなら、大学教授でも親でも高校教師でも教えて欲しかったものだ。もし、好きなこと=興味を持っているものだったと私が理解できていたのなら、どれだけ多くのことが語れたであろうか。

計算としての数学は得意ではないけど、記号と論理で描かれているシンプルな法則と世界観には強い興味を持っている。デカルトが、図形を想像上の座標に置くことで厳密な計算をできるようにした話など興奮しないわけがない。

絵は上手くないけれど、美術世界とそこに生きる人間には興味がある。一説では“水”に強く執心していたダ・ヴィンチや、生前に売れずとも自分の世界を描き続けたゴッホのことを思わずにはいられない。

プログラミングはできないけど、そこから日々プロダクトを完成させ世の中が回っていくことには興味がある。“Hello World”を出力するだけでも苦労をする世界からどのようなプロセスを経てTwitterやロボットはできているのか知りたいと思う。

また、選挙に関しては面倒臭さが勝って、一度も投票所に赴いたことはなかったけど、政治による社会の動きやデモのような集団的政治運動には興味がある。

こう考えると、彼の定義では私はどうやら好きなものだらけだったし、面談が終わってその事実にようやく気がついた。なぜこれほどまでに私と彼で話が食い違っていたのだろう。

実を言えばこれは当たり前のことなのだ。私たちはそれぞれ同じ響きをもった言語を自身の生活で上手に扱えるように再定義し、全く違う定義で会話をしていることに気がついていない、互いがいわば宇宙人のようなものなのだ。

私の話をすると、とある友人が彼の人生のために私を含めた周囲との縁を切ることは“死”に限りなく近いものとしている。客観的に覗いた世界では、もちろん葬式など挙げられていないため死んではいないのだが、私が以後に彼の生死を知ることが不可能であることは、主観的な世界にとって“死”そのものだと思っている。

この件についてこれ以上語れば大きく話がずれてしまうので、つまり私は“死”をそれくらいに近しいのだと考えてくれば良い。

であるから、死にたいと悩む人がいるのなら、私はきっと誰も知らない遠くの地へ引越せとアドバイスするだろう。上記の通り、遠くの地へ引っ越すことは周囲との縁を切ることは、周囲の主観的世界にとって“死”と同じもので、(私の考えでは)彼の“死にたい”という願望を限りなく満たしうるものだからだ。

しかし、これを誰かに真顔で話すのならば、私はたちまち意味不明な人間だと思われるだろう。ほとんどの人は、“死”というのは現世に存在する生が失われる状態をただ唯一の死だと考え、それに近いものなど存在しないだろうと思っているからだ。

このように会話をする人間が互いに違うことに伴い、言葉の定義や背景は少し違ってくるので、彼らが相互を理解できるほどの十分な会話は難しいと考える。だからこそ誰かが悪意もなく使っている言葉が、もう一方の誰かににとって非常に残酷な意味を持ったものとして認識されるといったコミュニケーションエラーが起きるのだ。

私たちは隣人が宇宙人であることを常に意識しなければならないし、隣人がある程度は地球人であることを意識しなければならない。あいつとの会話は実は成立しておらず、意味不明なそいつの言葉は背景を考えたところ、実はロジカルなものだったという可能性を忘れてはいけない。

であるから、それを忘れて自分語をひたすら全面に繰り広げ、“適切な会話”をしているように思っているような、目的のよく分からない面接は何の役に立つのだろうと思う。

最初の方に載せたまとめは、まさに目的のよく分からない面接のそれである。

「ごめん。そのままだけど落とすけど、どうする?」という面接官の言葉は、以後の就活生の発言によっては落とさないことを示す。コミュニケーションエラーのようなものが面接中に起きていて、それをすぐさまに解決可能である問題と認識しているからこそ、「そのままだと落とすけど、どうする?」と就活生に言っているのだ。(嫌がらせなら、ここで面接官はただのクソ野郎だったという話で決着がつくので、以後は読まなくて良い。)

つまり、生じている問題は就活生の資質や能力のような話の内容そのものには起因していない。これらが原因なのであれば、何をどうしても落とされてしまい、その場で解決可能ということは、ここで起きている問題は適切な言葉を話すことによって可能であることを示しているからだ。

しかし、就活生がこの問題を解決することは不可能だ。互いが使っている言語が原因でコミュニケーションエラーが起きていることなど知らない人間の方が多い中で、そのような問題が認識されることはほとんどない。

そして、面接官も同じようにコミュニケーションエラーの原因を正確に理解できていない。「落とすけど、どうする?」というのは、原因が就活生側にあるということを示す態度であり、相互理解のための努力を面接官が全くしていないからだ。

そのため、意図する会話が繰り広げられていないことに「どうする?」と言われても、面接官が意図するものをそもそも提示できていないのだから、答えは「どうしようもありません」でしかなく、目的のよくわからない面接となってしまう。

さっきの面接官のドラえもんの話も良い例だ。

彼は、ドラえもんという「現代では人の欲望を現代では不可能な技術を使ってかなえてくれる存在」を、単に「なんでも与えてくれるもの」と考えている。

ここで就活生が前者の通りにドラえもんを想定していた場合、内定通知書といった意味のわからない回答が出てくるわけがないのである。なによりもまず内定が欲しいと思っても、もしもボックスのような作中に出てくる道具でしかない。

ましてや、ドラえもんの道具が「作中に出てくるもの」として就活生が定義していたのなら、面接官がロジカル(笑)だと考えた内定通知書といった回答はクソ以外の何物でもない。こんなものが会話として成り立つわけもないし、そんなどうしようもない状態で人や会社の将来を左右するというのはなんだか情けないように思える。

このような、コミュニケーション不成立の状況から、就活生であれば何とか抜け出したい気持ちもあるだろう。しかし、ドラえもんをポケットからお菓子やお金を出してくれるといった「仲のいい親戚のおばさん」程度にしか認識しておらず、それが絶対だと考えるような面接官にたいしてどれだけ努力をしても会話ができることはない。

そのため、「ごめん。そのままだと落とすけど、どうする?」という意味のわからない問いに対しては、「お前が落ちろ、バカ。」といった意味のわからない答えで大怪獣バトルをしかけることによって、自身の意味のわからなさを悟らせることでしか打開策はないのかもしれない。


本買ったり、コーヒー飲んだりに使います。 あとワイシャツ買ったり