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誹謗中傷、あるいは他人の人生に介入しようとすること【原因考察編】

インターネット社会において、誹謗中傷はたびたび問題に上げられる。芸能人という大きな発信力を持った人間が誹謗中傷を原因に自死へと至ったということもあって、言葉の恐ろしさというものが拡散的に認識されるようになった。

世間は「従来より言葉とは凶器であり、私たちはその凶暴性を忘れている。」という論調で賑わっていると予測する。真実はいささか不明ではあるが、“誹謗中傷”という言葉がトレンドに上がっていることから、世間の興味と私の視点にさほどのズレはないだろう。

ところで、誹謗中傷ばかりが議論の中心になるために、私たちはそれさえ避ければより良い社会を目指せるのだと考えている。個人的な感情で人を傷つけてはいけません、と結論づけている。

しかし、それはただの幻想にすぎない。誹謗中傷をなくそうと努力するだけでは、今までの事件を十分に踏まえることはできず、同じようなことが繰り返し起きることだろう。それについて説明していきたい。

SNSによる距離の変化

SNSが社会に定着する前、テレビに出演する有名人は一般人である私たちにとって、一生関わることもないであろう遠い存在の人間であった。ふと街で見かけた時、何かの奇跡で一、二言会話した時、それを仲間内で自慢できるほどの遠さがあった。

有名人は自分たちと全く違う生活をしていることが想像できたからこそ、彼らに対して妬みから生まれたようなネガティブな話題でさえも仲間内で話すことができた。このように、有名人への誹謗中傷が生まれる構造のことを従来「有名税」と呼んでいた。

ちなみに、知名度が高ければ非難を一身に受けても仕方がないという意味で有名税を表しているわけではないことを注意してもらいたい。あくまで、有名であればそもそも話題に上がる母数が多く、(ポジティブとネガティブの比がどうであれ)ネガティブな意見がポツポツと見えてくるのは仕方がない、ということである。

これは有名人が大衆文化の構造を理解するためにある用語のようなもので、有名人をサンドバック代りにぶちのめしても良いという大衆のための免罪符ではないのだ。(これが免罪符としての意味を持っていたなら、非難の眼差しは有名人以外の少し目立つ程度の善良な市民にも向けられてしまう。)

話を少し戻す。

「有名税」という言葉が生まれるということからも、有名人側としても「そんなものは黙認しながら、適度に付き合えばよろしい」というスタンスがあったであろうことは想像に難くない。

というのも、オフラインにおける繋がりが顕著であった時代では、大衆と有名人の距離の遠さもまた顕著であり、本人が気付くように誹謗中傷をする人というのは熱心な少数派であったからだ。(この少数派はすでに大衆の粋から出ているだろう)

大衆が井戸端会議でするような誹謗中傷というのは、もはやそこでのコミュニケーションに他ならず、特に対象を直接害そうとする意図があるわけでもないのだから、人畜無害なものとして捉えていればよい、と解釈できていたのだ。

そこから、SNSがコミュニケーションツールとして存在感を持つ時代が訪れる。

youtuberやインフルエンサーなどのように、数日前までの一般人が有名人のような扱いを受ける環境が生まれ、それをきっかけにテレビ出演といったルートも生まれたため、一般人と有名人の境目が曖昧になった。

誹謗中傷の役割の変化

世の中の動きは基本的に、環境がまず変化し、その後に人々の考え方がゆっくりと変化していくものである。

就労における過去の神話の多くが、ほぼ成立しなくなったにもかかわらず、それを信じる人が相変わらず多いというのもそれを表した例である。

一般人と有名人は、SNSで以前より繋がりやすくなったが、それを人々が実感するのはまだまだ先の話であろう。これだけ近い存在になった有名人も、大衆にとってまだまだ遠い存在のように見えるのである。

この流れからも、誹謗中傷は今までと同じように使われると思っていたのだが、距離の変化に伴って役割を大きく変えてしまう。ある種の脅しにより、有名人の行動あるいは思想の矯正を促すものになってしまった。原因は二つある。

まず、「誹謗中傷を簡単に見せることができるようになった」ということだ。以前のように、井戸端会議で行われる有名人批判というのは、コミュニティ内での話のネタでしかなく、ネタたらしめたのは有名人との圧倒的な距離感が一般人の直接的な非難を阻害したためであろう。

どうしても誹謗中傷を有名人の目に触れさせるには、わざわざ彼らに向けて封筒やら切手やらを買って手紙をしたためる必要があり、ほとんどの人はそれほど労力を割いて述べるものでもないことを理解していた。

しかし、SNSで有名人との距離が近づいたことにより、本人へ誹謗中傷のメッセージを送ることはいとも簡単に行われるようになった。

仲の良い友達とゴシップネタで盛り上がるノリで、有名人へ誹謗中傷をぶつけることが可能になったのである。

次に、「誹謗中傷の本音を忘れてしまった」ということだ。有名人への誹謗中傷は、話のネタの一種であることは何度も述べているが、これは「有名人を非難してやりたい」という建前に隠される本音である。そのため、一般人はこういった本音をわざわざ語ることはない。

上のツイートなどは、似たことを表している。悪質な行動で表面的に見える意図というのは、建前にすぎず、本音はなんでもないというのが基本である。

しかし、誹謗中傷を本人の目の前でたやすくできる時代において、それがあまりにも簡単なものだから、大衆は誹謗中傷の本音と建前を同一化させてしまった。

まさか本音を忘れてしまうことなどあるまい、と考えている人もいるかもしれないが、「目的と手段を履き違えるな」というアドバイスがよくよく各所で述べられていることを想像するとよい。

大衆はSNSの便利さによって「誹謗中傷は話のネタ」という本音を忘れ、youtuberにやたらと謝罪を求めようとしたり、有名人のふとしたツイートに「残念です、ファンやめます」みたいな脅し(たかだか1人がファンをやめるごときで何ができるのかはわからない)をかけることで、彼らの人生へ介入することに積極的になったのだ。

<次回に続く>




本買ったり、コーヒー飲んだりに使います。 あとワイシャツ買ったり