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待てない僕らの罪

おはようございます。

チューバ奏者、指揮者、金管バンド専門家の河野一之です。

今日は

世の中が便利になればなるほど僕たちは待てなくなり、忙しなくなるよねという話。

待てない僕らの罪


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既読無視

小学生の頃は学校からの帰り道に

「何時に〇〇集合な!」

と声を掛け合ったり、相手の家の固定電話に電話をかけ要件を伝え集合して遊んでいた。

それが高校生になると一人一台は携帯電話を持ち連絡がより手軽なE-mailに変わった。

そしてイギリス留学を終えた2013年、浦島太郎状態で帰国するとほぼ全ての知り合いがLineを使っており、E-mailでのやり取りからLine上でのChatにコミュニケーションは舞台を移された。

何が変わったかというと

コミュニケーションが取れる手軽さ、速さだ。

相手の家電に電話を掛ける際は、親御さんが出る可能性を考慮し、話し方や内容をよく考えてからかけた。

E-mailは手書きで交換したアドレスが合っているのか、相手に届いたか届いていないかもよくわからない状態もよくあった。一通何円という時代に無駄玉は打てないから送る文章も吟味した。

通信環境も今よりも良くなかったのでメールが詰まることが多かった、なので返事が来るまで何度も「センター問い合わせ」を押した。そこにメールの着信があると歓喜し、開いてみるとチェーンメールだった時の落胆は大きかった。

そして留学から帰国して突然時代は一気に加速した。

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Lineによる既読表示とChat機能

これは確かに便利だ。自分の要件を見てもらえているのかリアルタイムでわかる。また連絡を取り合う上でまずアカウントごと登録をしなければならないので相手に要件が届いているかどうかもわかる。またチャット機能で本当にリアルな世界で会話をしているかのようなテンポでコミュニケーションが取れる。すごい革新だと思った。

今は慣れた、でも帰国当時はこの”速さ”にすごく疲れた。

また既読を付けたメッセージに対しての相手側からの返事の催促、更に言えばこちら側から送った要件に対し既読が見えてしまうからこそ感じる返事への渇望みたいなものにとても疲弊したのだ。

便利になり、コミュニケーションの仕方や速度が何倍にもなったこの世の中では、まるで監視社会のように既読無視を悪者扱いされ、さらに返事が遅れれば「お返事遅れまして申し訳ありません」「失礼しました」などと謝罪の雨が降っている。

小学生の頃は、電話にでなければ再度かけ直されるまで平気で数時間、数日経っていたし、誰がどんな要件でかけてきたのか、というかもはや電話がかかってきていたことなんて知らなかった。

E-mailの時代も相手にこちらがメールを開封した通知などいかないため塾考して返事を書くこともあれば、神経質な人には「追ってお返事します。」と返事をするぐらいだ。

Lineもそうであるが、例えば一通返事を返すと今この瞬間であればコミュニケーションが取れると思う人が増え山のような連絡がくる場合がある。

このように便利になりコミュニケーションが取りやすくなったおかげで元々仲の良かった方々との仲は更に深くなり、個人的意見だけれどもそうでもない人との仲は余計に遠くなった。それはコミュニケーションが取りやすくなった分

コミュニケーションを取る際の距離の測り方がわからない方が増えたためだ。女性にしつこく連絡をしてしまうおじさんのような感じ。

これも便利になったからゆえの待てなくなってしまった弊害。

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速くなればなるほど僕らは焦る。

車に乗れるようになって感じた。

歩いている時よりも、自転車に乗っている時よりも、原付に乗っている時よりも焦ってしまう自分がいた。

例えば信号が変わる瞬間

歩いていたら絶対に間に合わないと悟り次の信号の変わり目を目指す、でも車に乗っている時は間に合ってしまうかもれないからアクセルを踏みたくなる

まして何か急いでいる時なんかはその衝動が強くでてくる。

さっきのコミュニケーションの話もそうだ。

コミュニケーションが便利に、早く取りやすくなったからこそ返事をより早く期待してしまう。

だってチャットなんだから、Lineなんだからすぐ返せるはずでしょ?と勘違いしてしまう。

Facebook MessengerもTwitterのDMも、Facetimeもみんな既読機能を採用している。

この既読機能は一説には東日本大震災以降、家族間での既読によるメッセージが読まれたかどうかを確認する手段としてその後も使われてるという話がある。

つまり、家族間や親密な関係では効果を発揮するがそうでない場合は便利に成りすぎたせいで余計に焦らせられる場合もあるわけだ。使う人によるというのは多いにあるけどね。

世の中には成功話と失敗談しか浮き出てこない

便利になった世の中

様々な情報が幾千万と漂うインターネット

これらを毎日見ている僕らは、本当に数多くの成功体験談を目にしている。

〇〇すれば大成功
〇〇したからこうなった

などなど様々な条件付けをされ、日々多くの人に見られるように工夫された成功体験談が生まれている

また同じ数だけ失敗体験談も脚色されたりしながら多く掲載されている

まず成功体験談の話。

スマフォやPCの普及で多くの人の成功体験談が意図せずとも簡単に目に入るようになったことがきっかけで僕たちは

その人と自分を比べるようになりやすくなった

その人が一生の中でたった何回かあった成功体験談をまるでいつも成功しているかのように感じ、その人のバックヤードも性格も詳細もなにも知らないその人と自分自身を比較

自分はあの人に比べて成功していないからダメだ。

と考えやすくなった。そうすると強気の人は負けてられない!とより意欲を燃やすことができるが、そうでない人は自分と比較し

だったらやる必要なんてない、自分はあの人みたいにすごい人ではない

と早とちりする。

更に失敗体験談も数多く僕らの目に触れられようと宣伝され、こちらが意図せずとも、嫌でも目に入ってくる。

これが起こすのは

失敗が怖くなり、もとから挑戦しなくなる。または継続も発信もしなくなる

便利になりすぎ、情報が溢れたため簡単にいろんな人の成功も失敗も視聴者が増えやすいような方法で脚色され、編集されたものが世に溢れている。

情報が多すぎて、成功する前から、失敗する前から

何かをするという行為を早とちりで諦めさせられる。
結果ばかり目につくからそこだけに着目してしまう。
つまり頭でっかちになり動けなくなる。

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挑戦する人、成功する人、失敗する人が”減る”方が得する人がいるのだ。

挑戦したい人、成功したい人、失敗という経験を売りたい人にとってはそういうことをしたい人が減った方が一時的には競合が増えないのでいいのだ。(最終的には市場が収縮して終わりを迎えるのだけれども)

まとめ

何かが便利になっていく過程には必ず誰かの愛があると僕は信じている。

でもその結果を全て丸ごと受け入れる必要は僕はないと思う。

自分の意思で便利さ、速さ、快適さを選択できるように常に学び、考え生きていかなければ

その便利さに使われるようになる時代がくる。  

すでに僕たちはガスや電気がなければ火も起こせないし、スマフォや携帯が普及してから漢字も大分書けなくなってきた。

車やバイクが普及して人々は身体を動かさなく成り、お金を払ってジムに通う。

便利=悪では決してない、使う方の我々がバカになっていっているだけだ。そんな中でも頭のいい人たちはどんどん”便利”を開発し世の中を発展させていっている。

そんな中で

長く時間がかかっていたものが短くなれば、
僕らは短縮された時間分、焦る。
食べ物が簡単に手に入るようになれば、
僕らは太る。
コミュニケーションが簡単に取れるようになれば、
コミュニケーションが簡単に取れないことに苛立つ。

便利になるのはとても素晴らしいことだ。人々の愛と発明者たちの努力が実を結んだ結果なのだから。

でもその便利さに振り回され、挙げ句の果てには支配され洗脳されてはいけない。

道具やシステムは僕らが”使う”のだ、それらに”使われる”ものではない。

特に速さ、こればっかりは難しいね。

今日はそんな話。

Thank you

Kazz





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