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22/02/24 橋本晋哉チューバリサイタル3プログラムノート

こちらにも色々と関連記事を掲載しようと思っていたリサイタルが気がつけば明日に迫っています。チケットは当日(2/24)の12時まで、下記リンクからご購入いただけます。

ここでは一足早く、演奏会のプログラムノートを掲載します。


 第3回となる今回のプログラムのアイデアは、ピアノの内部奏法を必要とする作品を集めて構成することから端を発している。委嘱初演の木下さん以外の4作品では、何らかの形でピアノの内部を操作する(指ではじく、触る、など)奏法によって多彩な音色を引き出すことが求められている。昨今色々な意見があり日本の公共スペースのピアノでは内部奏法が難しく、よってなかなか再演の機会を掴めずにいたものを、今回(内部奏法が許可された)ピアノを外部からレンタルすることでまとめて演奏しよう、というわけだ。
 準備を進めていくにつれ、また木下さんから新作をいただいてから改めてプログラムを眺めてみると、「引用」という視点からこの曲目たちを眺められることにも気がついた。ちなみにこの演奏会の中で引用される作曲家は以下の通り。J. S. バッハ、ベートーヴェン、シューベルト、リスト、ムソルグスキー、ブルックナー、マーラー、バルトーク、ヒンデミット、ヴォーン=ウィリアムズ、レベデフ、メシアン、ボザ、クラム(まだあるかもしれない)。いくつかの作品ははっきりと、そしていくつかの作品は(まるで某イタリアンレストランの間違い探しのように)見つけるのは難しいかもしれない。また、引用のされ方も演奏される作品によって異なり、(ちょっと言葉は悪いのだけれど)その響きをパッチワークのように利用するものから、ある種の隠喩のようなもの、その作品を異化するようなもの、と多彩である。川島、野平、木下各氏の曲についてはそれぞれに執筆いただいた解説に譲り、ここではグロボカールとベイカーの作品について紹介したい。

ヴィンコ・グロボカール《ジュリリチューバイオカ》(1996)

 ヴィンコ・グロボカール VInko Globokar (b.1934)の《ジュリリチューバイオカ》(1996)は、当時ゲブヴィラー(フランス)で行われていたチューバの国際コンクールに際して作曲されたデュオ。ただしそこで課題曲などとして使われた訳ではない。一風変わったタイトルが目を引くが、ジュリ・リ=審査員は笑い(jury ris)、そしてチューバは…といった意味らしい。曲中にはグロボカールらしい、最高音や最低音、激しい跳躍や目まぐるしいパッセージ、チューバの定番曲の引用などが散りばめられ、どこかコンクールでの悲喜交々の情景描写(あるいは皮肉)のようにも受け取れる。ピアノパートにも多くの内部奏法や指定されているが、このピアノパートとチューバパートは、素材は一にしているけれどもデュオという意味合いではほとんど交わらない。

クロード・ベイカー《オマージ・エ・ファンタジー》(1981/87)

 クロード・ベイカー Claud Baker (b.1948) は現在インディアナ大学音楽学部で教鞭を取る作曲家。作品リストを見る限り、色々な作曲家の作品/スタイルが引用され、またヘッセやホイットマンなどの文学作品をコンテクストとして、それを軸に自分の音楽/音響を展開していくのが得意な作曲家のよう。《オマージ・エ・ファンタジー》は1981年に作曲され、1987年に改訂されたチューバとピアノの作品。オマージュとファンタジーが対となる四つの部分で構成されており、4人の近現代の作曲家へのオマージュとなっている。ピアノパートには多くの内部奏法が指定されており、またその役割の大きさからも「チューバオブリガート付きピアノソロ曲」と呼んでも良いかもしれない。

 「引用」と一口に言っても人によって様々な捉え方、捉えれら方があることは前述のとおりだが、近代に産まれてクラシックなレパートリーを持たない(そしてメロディーというものに縁遠い)チューバという楽器にとっては、今回の引用たちはそれらの追体験、という意味で少し特別なものかもしれない。(橋本晋哉)

川島素晴 《チューバとピアノのための3つの習作「バス課題/ソプラノ課題/学習追走曲」》 (2006)

 この作品は、2006年4月21日、公園通りクラシックスにおける「橋本晋哉&藤田朗子&太田真紀 ジョイントライヴ」のために作曲し、橋本晋哉と藤田朗子によって初演された。その後2013年1月までに計6回の再演がなされていたが、本日は9年ぶりの再演となる。「バス課題」と「ソプラノ課題」はいわゆる和声学の学習で課せられるものであり、「学習追走曲」はフーガの書法を習得するためのメソッドである。一見すると極めてアカデミックな題名であり、このような題名を真っ当な作曲家がつければ、フランス仕込みの洗練されたエクリチュールを披歴する作品内容になるであろう。しかしそこはアウトサイダーを自認する者の所業、当然のことながら、内容もひねくれたものになっている。
1)「バス課題」
 チューバが提示する初学者向けのバス課題のようなベースラインに、当初ピアノは「真っ当に」和声をつけていくが、次第に様子がおかしくなる。
2)「ソプラノ課題」
 旋律を上声部として、その下方に和声をつける課題なのだが、ピアノが内部奏法で緩やかに聖歌風の旋律を奏で、そこにチューバは、声と吹奏音を同時に出すことによって得られる重音をもって「和声付け」を行う。
3)「学習追走曲」
 ピアノが提示する、ほぼ無調の主題による3声のフーガで開始する。ところが次にチューバが主題を提示する番になると、同じ主題ではあるが、その全ての音が特殊奏法に置き換えられてしまう。それを受けたピアニストも、どうにか似た感じの特殊奏法に変形して応答しなければならない。
 今や世界的に見れば、こうした書法習得を課す日本作曲界のアカデミズムはガラパゴス的存在である。そこに向けた痛烈なアイロニー・・・少なくとも2006年時点においてはそうであったはずなのだが、アカデミーの中の人となってしまった今となっては、どういう面持ちでいれば良いのか途方に暮れている。
 とりあえず、学生たちには言っておかねばなるまい。
「良い子は真似しないように!」(川島素晴)

※より詳細な解説が以下のリンクからご覧いただけます。https://ameblo.jp/actionmusic/entry-12728050367.html

野平一郎《アラベスクV》 (1983)

 1983年、当時フランス国立管弦楽団のチューバ奏者だったメルヴィン・カルバートソンのために作曲。初演は1987年12月パリ市現代美術館のアンサンブル・アンテルコンタンポラン室内楽コンサートにおいて、ジェラール・ビュッケ(チューバ)と作曲者(ピアノ)により初演。全体は3部構成で、ほぼ同じ素材が各部分で別様に扱われている。
 私にとって、チューバというと、まず何よりも奏者が自分で扱えるギリギリの大きさというか、むしろ持て余す、という感のある弱音器に目がいってしまう。従ってこの弱音器を使って序奏や間奏を作り、曲の形式に一つのアーティキュレーションを与えたいと考えた。本来は、弱音器を吊っておいてそこにチューバ奏者が楽器自体を出し入れできれば、非常にユーモラス(むしろエロティック?)であろうと考えたが、これは技術的に難しかったようだ。この弱音器の戯れにピアノの内部奏法(ミュート音)が対応する。ミュート音としてはピュアなものから、倍音を多数含むもの、あるいは一方から他方への移行が使われる。
 まず冒頭はイントロとして、この二つ(チューバとピアノ)が絡みながら第一部に移行していく。第一部と第二部の間では、この二つは別々に展開する。すなわち、第一部の最後はピアノの内部奏法で終わり、第二部はチューバの弱音器の戯れではじまる。
 第三部は、最早ピアノの内部奏法はなく、というよりは第三部の音楽そのものがすでにピアノパートではじまっているところに、チューバの弱音器の戯れは第三部の音楽の一部として併合してしまう。この二つの楽器の戯れは、作品の内部での「音」を操作するやり方に対して、素材である「音」そのものの変質(ミュート音のピュアなものから多数の倍音を含むものへの移行、チューバの弱音器を使った音から通常の音への移行)を目指している。(野平一郎)

木下正道《不可視の絆の中の絆IV》 (2022) 委嘱初演

タイトルは、エジプト生まれのフランス語で書くユダヤ系詩人、エドモン・ジャベスの「ユーケルの書」所収の言葉から取りました。
 まずはチューバが独奏で、この曲のいくつかの「動機」を歌います。一つ一つの動機は、それぞれ特定の音楽的記憶、または「意志」の様なものに結びついています。やがてピアノも入り、互いに融和、牽制しながらそれらの動機を展開し、接合し、定着し、また切断し、消去しつつ、曲は進んで行きます。かなり激しい音像のやりとりが長く続く箇所もあります。
 さて、私はこの曲でいくつかの「引用」を行っています(最近の私の作品ではほとんどの場合何かしらの「引用」があります)。それらには一聴して分かりやすいものも、かなり変形されて時に音楽の中に溶け入り、分かりづらいものもあります。勿論、全ての音は何らかの来歴を持つ以上、使われる音全部が引用だと言えないこともないのですが、それほど極端ではなくとも、例えば一つ一つの音そのもの、またそれらがある程度集まった状態は、勿論それ自体の力、自立性などはありますが、それでもある種の歴史、また記憶たちは、程度はあれ何らかの形で刻印されていると思います。それらは明確に特定の作品を連想させることもあれば、もっと朧げな像を想起されることもあるでしょう。この曲での引用は、私なりにそれらを「繋ぐ」ものとして、最も的確であろうという曲の断片を選びました。つまりそれらの音型などが、構造的に私の曲のものと「親近性がある」と言う訳です。勿論元の曲の文脈、背景は無視することは出来ません。それらはこの曲にある種の「香り」を与えてくれるものでしょう。この辺りがタイトルにある「不可視の絆の中の絆」と言えないこともありません。しかしそれらもやがて、音そのものに内包されている「沈黙」が、音を食い破るように姿を現し、すべてが消尽していきます。その果ての「聴かれた残り」から、普段は気づかないような、この日常のすぐ脇にある不可視の時間、不可視の枠組みに触れたい、というのか、作曲者の希望であります。(木下正道)

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