見出し画像

いくつかの人格が存在していることに気づき統合するということ

心に蓋をしないといきていけないほどつらい幼少時代を過ごしていると別人格を自分の中に作っている可能性があります。

私は小学生の低学年から学校に行く途中の坂道をのぼっていくと毎日かならずモヤがかかる変な感じがしていました。ずっと忘れていたのですが、別人格に担当をかえていたのかもしれないと思います。

中学生のときクラス全員のことを匿名でそれぞれ3人ずつ思っていることを正直に書き、本人に配るということをしました。学級委員をやっていわゆる人気者のような扱いだったのですが、一人から「人によって態度が違う」と書かれていました。

仕事の上司からは「ほんとうのあなたがわからない。いくつもいろんな顔をもっている気がするの。」と言われました。

他にもいくつか思い当たることがあります。私自身人によって態度をかえているつもりが毛頭なく、誰にも同じように接していると思っていたので、なんのことだろう?と気にもしていませんでした。

心の蓋を開けたいな。。。と少しでもどこかで思っていると、いろんな「違和感」に気づけるようになってきます。

あれ?母親にこんなこと言われてなんとも思わないっておかしくない?と違和感を持てたことで毒親に本気で向き合おうと決心しました。

別人格があるかもしれないと気づいた違和感は、自分のことを考えているのに、「私は」ではなく、「この人」なのです。

「この人(自分)はちゃんと頑張る人だから大丈夫」とか

「この人(自分)は昔こういうことがあったときにこう対処した」とか。

こわいのは「お前(自分)だけは絶対解放してやらない。」という言葉。

これはおそらく一番つらい記憶を背負ってくれていた人格が蓋をあけさせないために自分を守ろうとしていたのだと思います。

もしも自分のことをかんがえるときに第三者のような考え方になっているのであれば、別人格をつくっている可能性があると思います。

あれ?自分のことなのになんでこの人って思うんだ?と気づいたとき、そういえば、自分のノートがいつもいろんな字であることに気づきました。

ものすごく丁寧にキレイな字を書いているときもあれば、雑で汚いミミズのような字のときもあるのです。

じゃあこのキレイな字を書いてみようとおもっても書けません。

おう。。。なんてこった。と思いました。

それからしばらく自分を観察してみました。

そうすると、また自分のことを第三者で語っているのです。そのときに気付きました。「めまい」がするのだと。

私がストレスを感じて対応できないと判断したとき「めまい」がおきて別人格にかわるのです。

それは何かから自分を守ろうとしている自分のサインなのだと思いました。

私は「大人」なので、自分で自分のことをすべて受け止めたいと強く願いました。「めまい」が起きた時、時間をつくって自分と話をしました。そして、目をつぶって、いままでありがとう。何が起きているのか。ひとつになりたいということを願いました。

しばらく「めまい」が起きていましたが、書く字は統一され、よく聞こえていた「お前(自分)のことは幸せにしない」「お前(自分)のことは解放してやらない。地獄行きだ。」という言葉も頭で聞こえなくなりました。

あれ?なにかおかしいよね?という違和感。違和感はとても小さい声です。

いま現状生きていることがつらいと感じるなら、自分自身をすべてうけいれる自分に「変わる」勇気を持って、違和感に耳をかたむけてあげてください。

もう自分の声を無視しない。自分のことをすべて理解したい。理解している人間に変わるのだ。そう思い続けると不思議と道は開けてきます。

とてもやさしい道だったりします。

2021/7追記

以降も「お前のことだけは幸せにしてやらない」という脅しは私の中に存在し続けました。

これは、母親と姉に迎合し、母親と姉に好かれることを目的として生きてきた私の決意だったのだと思います。

私は「いい子」気質で、みんな幸せになればいいと心の底から思っていました。いまでもそう思っていますが、「自分自身で幸せにする力が必要」であり、「自分自身の幸せも大事」だということを念頭に置きました。

私の母親と姉は、劣等コンプレックスを受け止めることができていないので、私の大きな成長を受け入れることができないのだと思います。私が海外に留学したり、車の免許を取ったり、憧れの仕事に就けたときなど、激しく私の人格を否定する行動を2人でタッグを組んでしていました。

おそらく、母親と姉は「末っ子(私)が母親と姉よりも不幸である」という条件のもと、私の成功を受け入れるという手段をとっていたのだと思います。

なので、私はどんなにがんばっても母親と姉よりは絶対不幸でいる。ということを決意していました。

アドラー心理学では、自分の人生を自分が生きないで誰が自分の人生を生きてくれるのだ。と言います。人に嫌われないために生きることはその人の望む人生を生きる、つまり、自分の人生を生きないということなのだということに気付きました。

人に嫌われることが自分の個性であるという考え方もあります。

私は、いま、人を嫌うことができるようになりました。私の好みの問題なので、人を嫌うことは悪いことではないと思っています。(嫌がらせをするとか、みんなでその人を仲間外れにするという行為は卑劣だと思います。)

あぁ、この人苦手なんだよな〰(笑)と、思っていると、不思議な感覚なのですが、「でも、この人いつも人一倍頑張ってるな。尊敬に値するよな〰。」と思っている自分がいました。苦手なのは変わらないのですが、尊敬はできるみたいです。

無職ながら妥協したら負けだ!焦ったら負けだ!と穏やかに闘っております。おもしろかったらサポートおねがいします。