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巨人軍の鬼といわれた川上哲治

おはようございます。野球伝説劇場『野球雲』編集部のなかのひとです。

開幕からはや2週間。昨日もサヨナラ負けで号泣した選手がいたり、延長12回まで粘りながら5点差をつけられて敗れたり…。

6試合のうち4試合が1点差ゲームと、プロ野球は相変わらずの熱戦が続いています。

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そんななか、読売巨人軍の若き四番打者・岡本和真選手が人知れずこんな記録を樹立しました。

あくまでも連続出場なので通算出場とは別ですね。ちなみに通算出場は499試合で今日にも巨人軍では7人目となる500試合以上を達成刷る模様です。

はい、「長嶋茂雄が新しい」を合い言葉に、長嶋茂雄が活躍していた時代よりもさらに過去を遡りながら、古きよき野球を紹介する野球雑誌『野球雲』で本日取り上げるのは、巨人軍の4番打者としての連続出場「218」、岡本和にあと18試合に肉薄された川上哲治です。

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大正9年3月23日生まれ。昭和13年に熊本工から巨人軍に入団した川上は、昭和33年を最後に現役引退するまで、巨人軍の中心打者というよりも日本を代表する大打者として活躍。

首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回のほか、MVP(最高殊勲選手)に3度も輝いている偉大な選手です。

昭和36年には巨人軍監督に就任。チームを日本一に導いたほか、昭和38年には2度目の日本一を飾った後、昭和40年から48年まで、不滅の9連覇の偉業を成し遂げました。

選手時代に話を戻せば、打撃練習中に「ボールが止まって見えた」という感覚を掴んだといい、その求道者ぶりを表すエピソードは数知れず。

日本球界を代表する偉大な打者誕生の裏側には、こんな逸話もありました。

「実は川上哲治は右利きである」

小学校に入学する3年前。自身5歳のときに、近所の砂利道で転倒した川上は右腕を負傷。その傷口から膿が出て、半年以上も右腕が使えず…。ようやく右腕の傷が治ったとき、川上はいつのまにか左投げに転向していました。

しかし元々、右利きの川上は、左で投げて右で打っていたといいます。左打者になったのは、熊本工2年生になったばかりの春から。同校野球の坂梨安次郎部長から「左で投げるのなら、左で打て」といわれて左打者に転向しました。

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もしも…川上が砂利道で転ばなかったら、もしも「左で打て」と言われなかったら日本を代表する偉大な打者は誕生していなかったのかもしれません。

『野球雲』にはブログもあります。川上のような知られざるエピソードも満載なのでよろしくお願いします…と同時に「来たかチョーさん待ってたドン」とか若い野球ファンは知らないだろうなと考える、なかのひとでした。

それではまた!

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