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イースター・バニーに会える日まで

花は無邪気に、4つのトゲを見せた。そうして言い足した。「さあ、いつまでもぐずぐずしないで。いらいらするから。行くって決めたのなら、もう行って」

カフェのテーブルには、菜々美の読んでいた文庫本と、黄色いカップに入ったカフェオレが置かれたままになっている。飲みかけのカップには、うっすらと縞模様が残っていて、由季はふと、コーヒーカップに残った模様でも占えるという話を思い出した。

「何で、見たのかな」

雑誌か、テレビか。そして、一体、何を占うためのものだったのか。

調べてみようと、バッグに手を入れて、携帯を忘れたことも思い出す。そもそも菜々美が怒ったのは、連絡もせずに待ち合わせに遅れたからだ。まさか帰ってしまうとは思わなかったが、由季には弁解できない事情もある。罰は甘んじて受けるべきだ。

由季が席を立とうとしたとき、マスターがテーブルに赤いカップを置いた。そして菜々美の残した黄色いカップはトレーにのせる。

「せっかく来たんだから、コーヒー飲んで行ってよ」

「すみません」

頭を下げた由季に、

「この場合は、『すみません』じゃなくて『ありがとう』でしょ」

マスターは笑って見せた。坊主頭に黒縁のメガネで、ちょっと怪しい店のバーテンダーのような雰囲気だ。しかし本人は気に入っているのだ。そもそも坊主頭なのは、薄くなり始めたのを気にしているからだ。内緒ではあるが。

「今は立場が違うんだから、ちゃんと言えばいいじゃない。由季ちゃんは就職して社会人、学生の菜々美ちゃんより忙しい。当たり前じゃない?」

いつもさりげなく声をかけてくれるが、今の由季には少し重い。

「いえ、いいんです。私が携帯を忘れて来て、連絡できなくて」

「いいんならいいけどさ。由季ちゃん、話したいことがあったんじゃないの?」

由季が大学を中退して働き出すまで1年と少しの間、菜々美と二人で、このカフェでアルバイトをしていた。その頃から、マスターは何かと「気づく」人だった。由季はそれを店主としての気配りだと感じていたが、菜々美はよく怖いと言っていた。

目の前に置かれたカップを見ながら、由季も今はそれがわかる。怖いというより、悟られているのだ。心の中を。

マスターが会社を辞めて、この町にカフェを開いたのは、もう30年も前だと言う。由季の母親のことも知っていた。古い製糸工場があるだけの小さな町だ。誰が結婚したとか、誰がどこの学校に入ったとか、辞めたとか、何でも筒抜けになる。由季はそれが苦痛だったが、母親が死んだ時、たくさんの人が泣いているのを見て、そういう繋がりなのだと知った。

みんながみんなを気にかけているような。田舎には、田舎のよさがある。だから、こそ。

「マスター、コーヒーの占いって知ってますか?」

由季がカウンターに移って声をかけると、カップを洗っていたマスターが顔を上げ、手を伸ばした。

「カップを見せてごらん。もともとはトルコの占いだったかな」

「そうなんですか?」

マスターは黒いシャツの袖をめくり、深く息をついてから、由季が飲み干したカップの底を見た。わざとらしく占い師を演じる。

「トルコのコーヒーはね、小さな鍋にコーヒーも砂糖も全部いっしょに入れて煮出すんだよ。それをカップに注ぐ。だから飲み終わると、カップの底にはたくさん粉が残るんだ」

「そうか、その模様を見るんですね。模様に意味があるって、何かで見たんです」

「ほら、カップの底」

マスターが向けた赤いカップの底を、由季は覗き込んだ。コーヒーの跡は丸く円になっている。

「円は、『成功が近づいている』という意味だよ」

大真面目に答えたマスターに、

「でもこれって、カップの底がそういう形だから、ですよね」

由季は笑ってしまったが、まだマスターは真剣な顔をしている。

「ずっと、他では会わなかったんだってね。大学に入ってから。ここでしか会わない。菜々美ちゃんが遊びに行こうと言っても、君は行かなかった」

その言葉をきいた途端、由季は居心地が悪くなり、カウンターから離れた。菜々美がこの町に引っ越して来たのは、小学4年生の時だ。父親が大きな家を建てて、そのことだって町では話題になったのだ。

菜々美は優等生で、勉強も好きだった。すべてにおいて要領がよく、人付き合いも広い。子供のうちから、それは菜々美の「才能」だと由季は思った。

大きな窓から、花びらの散る桜の木が見える。もうすぐ、復活祭。古くてガタガタの歩道が続く道の途中、誰も使わなくなった電話ボックスの向こうにある教会で、毎年、色とりどりの玉子を探すのだ。菜々美の家が教会と縁があり、子供の行事があると、由季も一緒に行っていた。牧師の穏やかな雰囲気が好きだった。

「もう、帰りますね」

由季がテーブルの伝票を探すと、

「いいよ」

マスターが手を振る。

「君達二人は、コーヒーは永久に無料です」

由季は『すみません』と言いかけて、

「ありがとうございます。ごちそうさまです」

と言い直した。

もう一度、テーブルに目を戻した時、由季はまだ菜々美の本が残っていることに気づいた。世界地図のカバーがかかった文庫本から、茶色い栞紐がのぞいていた。

何を読んでいたんだろう。

人の本を覗くのはよくない、このまま菜々美の家のポストにでも入れて行こう。由季は本を手に取り、バッグにしまおうとした。

一瞬見えた挿絵に、由季の手が止まる。文庫本にしては、カラフルな挿絵だ。そして見覚えがある。

「菜々美ちゃん、そこの席で、随分と熱心に読んでたよ、その本」

マスターが忙しく手を動かしながら、声をかけた。由季は、もう一度椅子に腰を下ろして、本を開いた。

『星の王子様』、教会で牧師が読み聞かせてくれた本だった。美しい挿絵も、話の作者であるサン=テグジュペリ自身が描いたものだと教えてくれた。その時も、由季は「才能のある人」を羨ましいと思った。

栞紐のページを開くと、王子様と一輪のバラが別れる時。

「さあ、いつまでもぐずぐずしないで。いらいらするから。行くって決めたのなら、もう行って」

由季は忘れていた。この町は小さくて、どんな話も筒抜けなのだ。由季が会社を辞めて南米に住むおじの所へ行くことも、もう菜々美は知っていたのだろう。

子供の頃からコーヒーは好きだったが、特に興味を持ったのは、このカフェで働き始めてからだ。死んだ母親の弟がコロンビアでコーヒー農園をやると聞いた時、すぐに心は決まった。スペイン語の勉強を始めて、ほどなく大学も中退して貿易会社に就職した。南米ではスペイン語の国がほとんどだ。しかし言葉以前に、商習慣の違いから、いろんな国を相手に仕事をする難しさも知った。

「羨ましいって気持ちから、逃げたかったって言ったら、笑いますか?」

マスターが透明なグラスに、透明なソーダ水を入れて運んで来た。由季の言葉に、

「よくわかるよ。私もそうだから」

「若い頃、ですか?」

「いやいや、今も。歳とっただけじゃ、若い人に語れるものなんか手に入らないよ。かっこいい、語れるジジイになりたいけどね。でもそんなもの、一朝一夕じゃ見つからないから」

由季は本を閉じて、バッグにしまった。この本は、このまま地球の反対側まで持って行こう。そして、考えてみよう。菜々美ももしかしたら、何かを探しているのかもしれない。大好きな、星の王子さまのように。

ソーダ水を飲みほして、由季はもう一度、マスターに礼を言った。

「そう言えば、菜々美ちゃんね、次の日曜日に教会でイースター・バニーをやるらしいよ。それって、バニー・ガールみたいなものなの?」

マスターは由季を店先まで送りがてら、反対側に見える教会を仰いだ。そろそろ夕方の鐘が鳴る時間だ。由季も空を見上げて、

「そうですね、そんな感じです」

と、とりあえず答えた。

小さな子供達のためとは言え、汚れた着ぐるみを着るなんて、なかなか出来ることじゃない。さすが菜々美だ。

いつか何かをみつけて、いつか何かがわかったら、菜々美に話そう。由季は1つ、心の中で誓いを立てた。長い旅のあと、イースター・バニーの菜々美に会えたら、本を返していろんな星の話をしよう。

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『星の王子様』 サン=テグジュペリ作 河野万里子訳 (新潮文庫)

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