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チムニースウィフトが夕焼け空に飛ぶ

ある日の夕暮れ時、ふたりはそれぞれにビールを三本ずつひっつかみウッドデッキ出た。そこにあるアウトドアチェアに座ってビールを開けた。出しっぱなしの華奢な椅子は埃っぽく、背をもたれると危なっかしく軋んだ。座面や背もたれには落としようのない染みが浮いていた。

ふたりは夕焼け空に切れ切れに浮かぶ雲をなんとなく眺め、ビールを飲み、ときどきゲップをしながら今日という昨日とほぼ変わらない一日について語り合った。

明日という今日とほぼ変わらないであろう一日に向けて日は暮れていく。空の青が濃くなり、隅に追いやられた太陽がかろうじて地平線に茜色を滲ませるころ、空のてっぺん——ふたりのうちのひとり、ボーと呼ばれる男はよく空のてっぺんと言った。昼間太陽が陣取っているところという意味だったが、ボー自身感覚で喋っているから具体的にどこということもないし気にもしていなかった——は群青色に染まっていた。

群青、紫、茜と三層で構成された空を、ボー言うところの空のてっぺんから地平線へ向かって、ひとつの影が横切った。

「おい、タン。お前いまの見たか?」ぐっと椅子から身を乗り出してボーが言った。

「なんだよ。なんかあったか?」タンと呼ばれた男は三本目のビールのラベルに書いてある細かい文字を読んでいた。薄明かりの下、かろうじて読める文字によれば、近所のコンビニで買った六本パックは意外にもベルギー産だった。タンは、ベルギーにも六本パックがあることにまず驚いた。

「空のてっぺんだよ。見たか、お前?」興奮気味にボーが言った。

「俺は空のてっぺんがどこかもわからん。だからたぶん見てないんじゃないか?」ベルギー産か、どうりで高かったわけだ、とタンは思った。

「チムニースウィフトだ。見間違うはずがねえ」

「ふーん。なんだよそれ」タンはビールのラベルから目を離し、空を見上げた。ボーが見せたがっているあたりは青が濃くなって星が瞬いていた。

「奴らが煙突に住んでいやがるから暖炉が使えねえんだ」椅子に坐りなおしたボーは、口元に持っていったビール瓶が空なことに気づき、新しい一本を開けた。するとボーの動きに特別な関心を持っていなかったタンが、瓶がボーの唇に触れた瞬間口を開いた。

「寒いのは勘弁。燻り出してやろうぜ」なんのことかはわかない。でも寒い冬こそ暖かく過ごしたい。タンはぱちぱちと薪が爆ぜる音を聞いた気がした。鳥か動物か、夜に向けて森が騒がしくなる。

「いや待てよ。お前、奴らが飛んでるとこ見たことあるか?」ボーはふたたび身を乗り出した。ビールが少し瓶の口からこぼれた。

「ないね。俺はそもそも奴らがどんなのかも知らねえし」奴ら奴らってなんのことを言ってやがる。チムニーなんとかだ?そんなもんのことよりビールがこぼれてるじゃないか。

「奴ら、あんまり羽ばたかないで飛ぶんだ。鎌の刃みたいな形に羽根を広げてスーーッと飛んで、急にくるっと向きを変えて、またスーーッと飛んで。それこそ空を切っちまうみたいにスーーッとな。それで奴らなにしてると思う?」

「知らねえよ。興味もねえ」嘘偽りなく興味がない。こぼれたビールのほうがタンにとってはよほど重要だ。そのビールを選んだのはボーだった。金を払ったのはタンだった。だからこれはタンのビールなのだ。はるばるベルギーからやって来た。それをボーの野郎は無駄にしやがった。ベルギーから来た俺の高いビールを。

「虫を喰ってんだよ。空飛んで、虫喰って、俺んとこの煙突に帰ってくるんだよ」ボーはビール瓶で肩越しに家を指した。しかし実際それは煙突でも家でもなく森を指していた。

「気楽なもんだ」ほんとお前は気楽だよ。人の金でビール飲んで、あげくこぼして。俺のビールを返しやがれ。タンはビールを一口飲んだ。最後の一本も残り少なくなっていた。

「そうかもしれねえが、俺は虫なんざ喰うのはごめんだね」

「それは俺もごめんだね」てめーは虫でも喰ってろとタンは思った。明日はお前にビールを買わせてやる、とタンは母親の名にかけて、いや、ベルギービールにかけて誓った。

「寒いのは勘弁だ」とタンが言った。明日のビールのことを考えながら。

「チムニースウィフトはチムニー(煙突)に住むんだ。仕方がねえよ」とボーが言った。ボーは薄煙のような白さを帯びた夜空にチムニースウィフトの影を探していた。

「工夫のない名前だな」六本パックをふたつ買おう、とタンは心に決めた。

「チムニースウィフトなんてそんなもんさ」ボーは冬の夕暮れに思いを馳せた。冬は夕暮れが早く訪れる。冬になったらいまはもう夜だ。さっきからずっと夜だ。これからずっと。夜は嫌でもやってくる、明日の前に。チムニースウィフトは――――

「なあ」とタンがボーの思考を遮った。タンのほうに目を向けると、家の灯に照らされたタンが黒いシルエットのようにぼうっと見えた。タンのシルエットは夜よりも黒かった。

「明日はお前がビールを買えよ、ボー」タンの口からというよりな風景のどこかからタンの声がした。そんで明日はちゃんと飲め」

「わかったよ。明日はこいつをもっとたくさん買ってやるよ」

「わかってるじゃねえか。我がベルギーの友。それじゃあチムニーなんとかの話を聞かせてくれよ」タンのシルエットがもぞもぞと動いて形を変えた。ビールの空き瓶が倒れた。

「チムニースウィフトはな、夕暮れ時に飛ぶんだ。冬は日が短いだろ。奴らが飛ぶ夕暮れはどっちだろうな。いまの夕暮れか、冬の夕暮れか」

「冬の夕暮れ時は寒いだろうな。それでも奴らは飛ぶのか?」

「そうするしかないだろ?チムニースウィフトなんてそんなもんさ。でも、なかなかのもんなんだぜ」とボーは言った。

チムニースウィフトは夕焼け空に飛ぶ。チムニースウィフトとはそういうものだ。

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