古手川唯事件
どうしても許せない話。
大学3年の春だったと思う。
とある授業で、たまたま隣の席に座ったやつと仲良くなった。
中肉中背、黒縁メガネ、猫背、濃緑パーカー、チリチリパーマ・・・
間違いない、こちら側だ。
その日は初回授業。
ガイダンスと題したそれは、シラバスを読み上げるだけで、30分ほどで終わった。
次の授業まで1時間はある。
特にやることもない私は、隣に座る彼、ここではAくんとしよう、と時間を潰すことにした。
時間を潰すといっても特に話すこともない。
学部はどこか、サークルには入ってるか、この授業は難しそうか、みたいな、テンプレの質問を一通りこなす。
沈黙はなんだか気まずいので、ただ間を埋めるためだけの会話を続ける。
お互いがお互いに合わせて脚を動かす。
主体性のない歩みに合わせて、スマホの万歩計メーターが回っていく。
精進料理よりも薄い言葉を撒き散らしながら、キャンパス内を闊歩すること20分。
私たちは、ベンチに座るという大いなる決断をした。
戦力外目前のプロ野球選手が、フォームをちょっと変えただけで大活躍するなんてことは、よくある話だ。
ちょっとした変化が大きなものを生むきっかけになる。
私たちにとっても「ベンチに座る」という変化が、まさにそのきっかけであった。
(文字通り「ベンチ入り」だ)
座ったことで、お互い落ち着いてスマホを使用できるようになった。
こんな動画を見てるとか、この前こんなことがあったとか、私のすべてを取り込んだiPhone13miniが話に花を咲かせてくれた。
いろいろ話しているうちにアニメ、漫画の話になった。
やっぱりAくんはこっち側だ。
共通の話題があると話しやすい。会話もはずむ。
いろんな作品をめぐった後、私たちは一つの結論にたどり着いた。
『To LOVEる -とらぶる-』
これが私たちの結論。
釈迦に説法かもしれないが、簡単に説明しておく。
『To LOVEる -とらぶる-』は、矢吹健太朗、長谷見沙貴による漫画作品で、アニメ化もされた人気作品である。
主人公である男子高校生、結城梨斗が個性的なヒロインたちといい感じになるラブコメ作品なのだが、とにかくお色気シーンが多い。
ありとあらゆる角度からヒロインのサービスカットが描かれる様には舌を巻く。
舌を巻きすぎて一切の発音ができなくなった人がいるとかいないとか。
そんな『To LOVEる』が、私たちの会話のメインテーマとなっていた。
どういう流れだったか、なんて問うのはナンセンス。
いかなる状況においても、男子大学生の会話というのは、『To LOVEる』シリーズの誰と付き合いたいか、という話題に収束する。
これがこの世の真理なのだ。
はじめて聞いたという方は、創世記8章23節を参照されたい。
というわけで例に漏れず、私たち普通の男子大学生2人組も、この話をしていた。
先行はAくん。
「僕はララが好きだな」
ほう
ララの闊達さ、ストレートな愛情表現、時折みせる寂しそうな表情、そして何よりも美しい肉体
いいね
正直、私はララが好きだ。
小学生時代、近所のブックオフに通い詰め、ララの裸エプロンを目指して一心不乱にページをめくったあの日々を誰が忘れるというのだろう。
かのユリウス・カエサルも、ルビコン川を渡る前にララの裸エプロンを見たと言われている。
しかし、男にはやらねばらならん時がある。
「キミは誰が好きなの?」
Aくんからの質問。
私は怯えていた。
自分の好きな『To LOVEる』のキャラクターを言うことに。
私は弱い。
顔も不細工、身長も低く、歯もガタガタ。
運動が苦手で、芸術のセンスは壊滅的。
まだましかと思われた勉強の方も大学受験に失敗。
最近受けた語学試験にも落ちてしまった。
『山月記』の李徴からプラスの側面を取り除いた存在。
カスの虎。
そんな私も一人の男だ。
言わなくてはいけないのだ。
本当に付き合いたい『To LOVEる』のキャラを、、、
心臓の鼓動が加速し、身体は震え、脳がバチバチと音を立てる。
頭頂葉ウェルニッケ中枢、前頭葉ブローカ中枢、各種運動神経が唸るように電気信号を送る。
137億年前、ビッグバンを契機として始まったこの世界。
その歴史の中で様々な生物が生まれては消え、美しくも儚い営みを繰り返してきた。
私の存在はこの偉大なる世界の調和の下に成り立つ奇跡なのだ。
そうして、この137億年すべての歴史が集約された私の身体は、大いなる生命の連関の中で、一つの答えを導き出す。
さあ、言うぞ!!
世界がどれほど残酷でも
世界がどれほど冷酷でも
世界がどれほど厳酷でも
私は叫ぶのだ
彼女の名を
私が愛する彼女の名を
「古手川唯が好きだ」
言った。
私は言ったのだ。
古手川唯こそが本当に付き合いたい『To LOVEる』のキャラだと。
Aくんを見る。
彼は私の目を見たまま固まっていた。
刹那の沈黙。
彼はわずかに顔を動かす。
「ふんっ、、、」
Aくんは鼻で笑った。
私の記憶はここで途切れている。
どうしても許せない話。
後日、友人にこの話をしたら同様の反応をされた。
「お前が古手川唯を好きなのが、なんか面白い」とのことだった。
滴が頬を伝った。
自分が納得した生き方をしたい。
—— イチロー・スズキ
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