カルアミルク
タイトル見て「岡村ちゃん?」と思った人はそれなりに音楽好きか年代同じくらいの人だと思います。
今回はあの名曲について書きたい…のではない。残念ながら。
先日、Twitterで“レストランでの食前酒にカルアミルクをオーダー受けたらどうする?”みたいな呟きを目にした。
とても興味があったので追っていってみると、業界内と思しき方々の意見は擁護あり批判あり、はたまた切り口が面白いものありなど様々で勉強になりました。
僕はレストランで働いた経験はないけれど、飲食業を生業としているから、この逡巡はある程度わかる。
たぶん同じ立場にいれば、突っぱねたいと思いつつ悩むであろうことは想像に難くない。
これを読んでくれている方の中にまさかこういうオーダーをされる方はいないと思うし、その理由をなんとなくでも推察できると思う(と信じたい)。
僕は個人の好みやら多様性やらに対して「一定の理解はする」が、その世界を楽しむには楽しむための規律・規範が必ず存在すると考えている。そこに軽佻浮薄な時代の空気感などというものの介在は認めない古いタイプです。
レストランの食前酒にカルアミルク。
批判を恐れずに書けば失笑もののオーダーだ。ついでに、後々、スタッフの間で”あるある話”のネタにされるのは確実…いや、今じゃネタにもならんか。
場所は全く違えど、そんな光景を見た経験は何度かある。
もちろん”ハレ”の場であるレストランではない。”ケ”のお店、居酒屋で。
そういう意味ではまだ救いがあったと思いたい。
直近のそれは刺身を肴に蛍光色で見た目以上甘そうなサワーにアイスクリームがonされているというパンチの効いたヤツだった。いま思い出してもゾッとしない。
もちろん、”ハレの場”ではないから仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。普段使いのお店は規律・規範は緩いか、或いは無いも同然だから。
かと言ってそれを理解できるほどの味覚も思考も持ち合わせていないし、許容できるほど大人でもない。だから、そんな人とはハレ・ケを問わず席を共にしたいなどと微塵も思えない。その人の外見がどれだけ魅力的であっても。
しかし、SNSで呟かれて−一部であるにせよ−喧々諤々される以上、ごく少数かとは思うが見かける程度にこういう層が存在している証左でもある。
ということはレストランでも居酒屋でもそういう事態に遭遇しているスタッフも一定数いるということになる。オーダーを受けたその時の心境を聞いてみたいと素直に思う。
僕の意見は前述の通り。
で、せっかくなので当店にいらしたお客様にも聞いてみました。
やはり「食前酒にカルアミルクはない」がほとんど。
はい、でしょうね。
だって乳脂肪×糖分の暴力性に対抗しうる前菜などほとんどないんじゃないだろうか。
少なくとも僕は出会ったことがない。
オーダーされた方はおそらく招待された側で、場に不慣れだったのだろうと想像する。
そういう意味では仕方がなかったかもしれない。自分の中に存在する文化ではなかったろうから。
それでも、である。
ホスト側から行くお店がどういうお店で、どういう場なのかを聞かされていたのなら少なくとも調べる時間があったはずだ(これがサプライズならホスト側に問題がある)。なぜそれを怠ったのか。
情報が世に溢れ、飽和している今の世界で”知らないことは別になんでもないこと”だからかも知れない。
「昔は…」と書くのは本当に嫌なのだけど、昔は「カッコよくありたい」とか「カッコつけたい」、もっと有り体に−或いは捻くれて−言えば「見栄を張りたい」「恥をかきたくない」というのが根本にある人が多かったように思う。それが故にみんないろいろ調べて知識を吸収していたんじゃないだろうか。
少なくとも僕はそうだった。今、それらは安い言葉となった「教養」というヤツだ。たぶん。
“「知らない」と言いたくない”という見栄や背伸びや意地というのはこういう時に役立った。
ただ、当時は今に比べたら微々たる情報量しかなく、気になった事は自ら調べないと手に入らないことがほとんどだったというのはある。
玉石混淆であるにせよ、飽和するなどという贅沢かつ過度な現在のような状況には程遠く、グラスで例えるなら情報という液体は半分も満たされていなかった。足りない分はセルフで注ぎ入れなければ−つまり調べなければ−ならなかった。
あの当時、今よりも”調べる”という行為は至極当然だったのだ。そして今よりもそれはフィジカルなものだった。
対して、現在はググれば苦労せずともかなり出てくる(もちろん検索能力がなければならないけど)。そして、前述した”個人の好みやら多様性やら”でいろんな事や物がカジュアルダウンされていたり、「まあ、それもアリだよね。好みだし」という”事なかれ”というか”他人の好みには不干渉”みたいな風潮がある。それはそれで悪くない事もある。だけど、それとは逆にそうなってしまってはならない事や物もあるのだ。
この一件、僕のように批判ないし小馬鹿にしたような意見を出した側よりも擁護した(或いはそっちに寄った)側が世を見る目としてはアップデートされているのだとは思う。
こういうケースに出会うことはあり得るのだ。交通事故レベルだとしても。だから、そのケーススタディとしてどう着地させるかを考える方が有意義だろう。それにしても…このオーダーに僕は承服しかねる。
まあこれもそれこそ個人の意見だし、そもそもここで書くならTwitterで参加すればよかったじゃないかと言われたら返す言葉もないのだが。